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武侠小説:慧剣魔僧録  作者: ヤマダ


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第十話

 折れた剣身が岩を叩き、冷たく乾いた音を残して崖下へと消えていく。


 趙謙(ちょうけん)は残った柄を無造作に放り捨てると、大きく両腕を広げ、指の関節を一ひとつ鳴らした。


 その全身からは、伝説の霊薬『大還丹(だいかんたん)』がもたらす猛烈な陽気が蒸気となって立ち昇り、墨石城の寒風を熱く押し返している。


 胤昭(いんしょう)は、滅紫に濁った瞳でそれを見据え、口角を嘲るように歪めた。


「……剣を捨て、拳で私とやり合おうというのですか? 天下の少龍寺の弟子を相手に」


 その問いは、武の至高を極めた少龍寺への絶対的な自負。趙謙は、自身の拳を軽く握り、肩の力を抜いた。


「試してみるか?」


 趙謙は右足をわずかに引き、虚実を織り交ぜた半身の構えをとる。


(……少龍寺の剛拳は、確かに江湖一だ。だがな、拳ってのは、ただ強ければいいってもんじゃないんだよ)


 胤昭が地を蹴った。爆発的な内功を乗せた少龍寺の正拳が、空気を圧し潰す咆哮を上げながら肉薄する。


 一撃で岩を粉砕し、絶命せしめる、必殺の重。


 だが、趙謙は退かなかった。


 踏み込む胤昭の勢いを、趙謙は柳が風をいなす如き円の軌跡──道家の真髄たる『化勁(かけい)』で受け流す。相手の剛力を虚空に逃がし、その膨大な真気を自らの内へと引き込む。


「──っ!?」


 胤昭の拳が空を切り、重心がわずかに崩れたその瞬間。趙謙は相手の力を逆利用し、さらなる勁力を乗せて拳を放った。


 それは、無為自然の理合に基づいた、武当派の『太極慧拳』をも凌ぐ奥義。


「『連環震拳(れんかんしんけん)』と言う。覚えとけよ?」


 趙謙の拳が、胤昭の胸板に触れた。叩きつけるのではない。ただ、触れた一点から、大還丹の熱量を帯びた破壊的な振動──『発勁(はっけい)』を、波状攻撃のように流し込む。


 ドォ、ドォ、ドォンッ!!


 三段に渡る衝撃が胤昭の体内を駆け抜けた。連環震拳の『地龍翻身(ちりゅうほんしん)』の型である。内臓を直接揺さぶる「震」の勁力に、胤昭を包んでいた滅紫の内功が一瞬にして霧散した。


「がはっ……! ゔっ、ぐふっ……!」


 鮮血を吐きながら後退する胤昭。彼は血の海に膝をつき、揺れる視界を戻そうと必死に内功を巡らせる。


「ゴホッ…ゴホッ……。私が間違っていたと……言うのですか!? 死ぬべき奴らが、まだのうのうと生きていて……鉄槌を下すべき私が、ここで死にかけている……!」


 胤昭は血を吐きながら叫んだ。それは入魔に堕ちた者の、呪詛にも似た咆哮であった。


「なぜ、私が責められねばならないッ!? 先に罪を犯したのは、奴らではないか!? それを棚に上げ、私を攻撃する──ゴホッ、ゴホッ!」


「棚に上げる、か……。俺が今、一番お前にかけたい言葉がそれだよ、胤昭」


 趙謙は冷徹に、しかし慈しみすら感じさせる声で言った。


「お前はなぜ、小宛(しょうえん)の気持ちを棚に上げて、復讐を語っているんだ?」


 胤昭がハッと息を呑む。


「『復讐をしたいからしている』とでも言ってくれれば、まだ納得するさ。だがな、お前は、死ぬべき奴らだの、鉄槌だのと、小宛の代弁者を気取っている。……考えてもみろ。ドジで、誰よりも優しかった少女が、こんな凄惨な復讐を望むか? そんな無様な姿を晒させるか?」


 趙謙の言葉は、鋭利な刃となって胤昭の「心の防壁」を貫いた。


「そうだ。お前は間違っている」


 趙謙の言葉は、崖を吹き抜ける風よりも冷たく、そして重かった。


 胤昭は血にまみれた手で地面を掻きむしり、その指先が石に食い込む。滅紫の気勁が霧散し、剥き出しになった彼の肩が、微かに震えていた。


「……小宛の……気持ちを……」


 胤昭の脳裏に、かつての記憶が蘇る。


 掃除の最中に転んで、顔中を墨だらけにしても「大丈夫ですよ」と笑っていた、あの不器用な少女。


 彼女なら、今のこの血の海を見て、何を言うだろうか。


 胤昭は見た。血の海に映る、自らの姿を。


 返り血で黒ずみ、殺戮の悦楽と絶望に歪んだその貌は、皮肉にも彼が憎み、蔑んでいた「外道」そのものであった。


(私は……何をしているのだろうか?)


──



 復讐をしたかった。


 ただ、それだけだった。


 復讐が何も生まぬことなど、最初から知っていた。


 失われた命が戻るはずもなく、この胸の疼きが癒えるはずもない。


 復讐を遂げれば、今度は自分が誰かに殺される側の標的になる。そんな因果の道理は、十年の修行で耳にタコができるほど聞かされてきた。


 それでも尚、なぜ私は、拳を振るっている?


 なぜ、関係のない末端の武人たちまで肉塊に変えている?


 なぜ……小宛が命を懸けて守ったはずの、あの妹の顔を思い出そうとしない?


 血を分けたわけでもない。ただ愛した女の妹というだけの存在。


 確かに、あの子はただ、それだけの存在。


 だが、それを差し引いても余りある過酷な運命があの子にはあった。それを、私はなぜ一顧だにしない?


 小宛が守ったあの子は、どうでも良かったのか?


 ……。


 そうか、どうでも良かったのだ。


 ならば、なぜ私は『大還丹』を盗んでまで、あの子を助けようとした?


 ……。


 そうか、すべては、


 すべては、私のために過ぎなかったのか。


 私の意志で行い、私が救われたいために手を汚し、私が、私自身のために始めた復讐。


 小宛のため?


 ふふっ、ふははは!


 違う。そんなものは、ただの「逃げ」だ。


 これまでもずっとそうだった。みっともなく、卑怯に、私は逃げ続けてきたのだ。


 小宛という愛する存在から逃げ、彼女を欲する自身の心からも逃げ……。


 そしてついに、すべてを喪った空っぽの自分自身からも、復讐という名の狂気の中に逃げ込んだ。



──


(どうやら、いつの間にか。私は救いようのない人殺しの怪物になっていたらしい)


 胤昭はぐっと拳を握りしめ、天を仰いだ。


 そこには、殺意を嘲笑うかのような抜けるような晴天が広がり、絶念崖の冷たい風が吹き抜けている。


「フッ、ハッハッハ!! アッハッハッハ!!!」


 腹の底から、乾いた笑いが溢れ出した。


 張り付いた仮面を剥ぎ取り、己の醜さを認め、気持ちを晴らすために嗤った。


(だが、もう遅い──)


「……ハッ、ハッハッハ! そうだ、後戻りなどできないのだ!」


 胤昭の笑い声は、もはや狂気ではなく、己の醜悪な真実を飲み込んだ男の、清々しいまでの諦念に満ちていた。


 彼は滅紫の内功を再び爆発させ、その瞳に宿る虚無を「正義の光」だと偽るように、爛々と輝かせた。


「趙謙! 見ていなさい! 私は……私は、彼らに正義の鉄槌を下さねばならぬのです!」


 胤昭は地を蹴った。


 標的は、腰を抜かして震えている清流会の生き残り。その無防備な喉笛を掻き切るべく、死神の如き速さで肉薄する。


「……胤昭ッ!!」


 趙謙が吠えた。


 大還丹の残る全内力を右拳に集束させ、経絡が焼き切れる音を無視して踏み込む。


 『連環震拳』の絶招、『生死連環(せいしれんかん)』。


 生と死、動と静、すべての因果を一点の振動に凝縮し、放つ一撃。


 ドォォォォンッ!!


 凄まじい衝撃が胤昭の背を貫いた。


 内臓を、骨を、そして彼を突き動かしていた魔の執念を、趙謙の拳が粉砕する。


 胤昭は鮮血を撒き散らし、大きくよろめいた。だが、執念は潰えない。膝を折り、血に塗れた指先をなおも敵へと伸ばそうとする。


 その刹那、激闘に耐えかねた断崖の縁が、轟音と共に崩落した。


「……、っあ」


 胤昭の身体が、重力に引かれて真っ逆さまに落ちていく。


 墨石城を見下ろす暗い奈落の底へ。


 本来ならば、ここで物語は終わるはずだった。


 だが、趙謙という男は、胤昭が思うよりもずっと「お節介」で、そして「優しい」浪人だった。


「……勝手に一人で死なせてたまるかよ、坊主」


 趙謙は迷わず、崩れゆく崖の端を蹴った。


「趙施主!!」


 背後で響く延武(えんぶ)の絶叫を風に流し、落下する加速の中で、趙謙は胤昭の身体を強く抱き寄せた。


「趙……施主……。なぜ……?」


 驚愕に目を見開く胤昭。趙謙は答えず、落下する速度の中で、自らの掌を胤昭の胸元へ、優しく、しかし確実に添えた。


「……。悲しんでいても、仕方がねえんだろ? だったら、せめて俺の手で終わらせてやる。……地獄への案内料だ、取っとけ」


 地面に叩きつけられる寸前、趙謙は最後の一勁を胤昭の心臓へと送り込んだ。


 苦痛を伴わぬ、慈悲の震動。


 ドサリ、と。


 墨石の塵が舞う地下に、二人の男が落ちた。


 太陽は高く昇り、墨石城の煤けた街並みを照らし出している。


 趙謙は、もはや動かなくなった友の亡骸を抱えたまま、静かに目を閉じた。

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