第16話 La Mer -1
「葛城さん、まだ残ってます?」
デスクの向こうから田中が顔を出した時、俺はもう鞄を閉じていた。
「いや、今日は上がる」
「珍しいっすね。月末なのに」
「用があるんでな」
田中が「へえ」と間延びした声を出した。
何の用ですか、とは聞いてこない。この後輩のそういうところは助かる。
家に着いたのが二十時半。
飯を流し込んで、ヘッドギアを装着したのが二十時五十分だった。
『シンクロ・リンク、スタート』
視界が白く染まる。
ルミナスエデンの中央広場は、ゲーム内の夕暮れに沈んでいた。
魔導灯が点き始めたばかりの、まだ空に赤が残っている時間。
噴水の縁には、すでに三人が揃っていた。
「遅い」
開口一番、それだった。
「まだ十分前だぞ」
「アタシたちは三十分前から待ってるのよ!」
「それはお前らが早すぎるんだ」
リーシャが長杖の石突きで地面を小突いた。
その横でミナが小さく手を振り、ナギは壁にもたれたまま軽く顎を引く。
それぞれの挨拶の仕方が、もうすっかり見慣れたものになっていた。
「じゃ、行くわよ! 転送先はリヴァイア」
『リヴァイア』。
海の上に街を建てた連中の国だ。
転送を抜けた瞬間、潮の匂いが鼻を突いた。
足元は白い石畳で、そこから見上げる先に、細長い塔が幾本も突き立っている。
石灰岩を削り出したような白。塔の先端は針のように尖り、夕日を受けて橙色に焼けていた。
塔は一つの島に建っているわけじゃない。
海に浮かんだ岩礁のそれぞれに塔があり、島と島は長い石橋で繋がれている。
橋の下では波が絶えず砕けていて、白い飛沫が石壁を濡らしていた。
「うわ……綺麗……」
ミナが足を止めた。
「シルヴァニアの時もそうだったけど、ミナは毎回止まるわね」
「だって素敵じゃないですか、これ!」
俺も、正直同意だった。
バステトの乾いた砂も、シルヴァニアの緑も見てきたが、ここは光の量が違う。
海面が夕日を反射して、白い塔の壁面を下から照らしている。
ナギが橋の欄干に手をかけ、水面を見下ろした。
紅い着物が、白い石と青い海の間で妙に映える。
「久しぶりに来たな」
「そういやお前、この街は」
「……ほとんど寄らない。用がない」
言われてみればそうだ。
バステトは鍛冶と傭兵、シルヴァニアは回復と錬金。リヴァイアは交易と工学の街だ。
刀一本で戦う人間が足を運ぶ理由は、確かに少ない。
「もったいないな。この時間の眺めは悪くないぞ」
「……ああ」
ナギは水面を見下ろしたまま、短く答えた。
「悪くない」
こいつがそういう言い方をする時は、たいてい気に入っている。
「ほらほら、観光は後よ。イベント受付はあっち」
リーシャが先頭を切って歩き出した。
港の一角に、明らかに他と雰囲気の違う一団がいた。
揃いの外套を着て、木箱や測量器具を積み上げている。
そしてその周りに、プレイヤーが群がっていた。
数十人はいる。四人ずつ固まっているのが遠目にもわかった。
イベント初日の受付だ。この人だかりも当然といえば当然だった。
「うわ、すごい人ですね……」
「並んでたら日が暮れるわね」
リーシャはそう言うなり、人の隙間を縫って歩き出した。
止める間もない。
「すみません。イベントの受付ってここで合ってます?」
躊躇がない。
こういう時、こいつは本当に早い。
「ああ、参加希望の方ですね」
団員が顔を上げた。若い男のNPCだ。
「『沈鐘の海楼』の調査補助ですね。四人パーティーでの登録が必要ですが」
「四人います」
「では、こちらへ。詳しい説明は団長から直接お願いします」
団員は港の外れを指した。
石橋の先、街の輪郭が途切れるあたりに、小さなキャンプが見える。
「あちらの調査キャンプまでお越しください。転送は使えませんので、徒歩でお願いします」
「歩きなの?」
「橋を渡っていただければすぐです。……その道すがら、海をご覧になってください」
団員は少しだけ声を落とした。
「三ヶ月前まで、あの辺りは何もない海でした」
石橋を渡っていくにつれ、街の喧騒が遠ざかっていった。
途中で、視界が一瞬だけ滲んだ。
前後を歩いていたはずの他のパーティーが、そこで消える。
「あ、切り替わりましたね」
「ここからインスタンスか」
橋の上には、俺たち四人だけが残っていた。
同じ場所に何十組といるはずだが、互いには見えない。よくある処理だ。
しばらく歩いたところで、ミナが立ち止まって海を指した。
「あれ、なんでしょう」
沖合の一角だけ、水の色が違っていた。
深い紺の中に、円く抜けたような場所がある。
よく見ると、そこだけ水面が渦を巻いていた。
「排水機構よ」
リーシャが目を細めた。
「海の中の遺跡から水を抜いてるの。あの渦は、抜いた水を吐き出してる出口ね」
「あんな大掛かりなことができるんですね」
「リヴァイアだもの。この国の精密工学、たぶんルミナスエデンより上よ」
俺は渦を見ながら、少し引っかかっていた。
海底の建物から水を抜くというのは、要するに水圧に逆らうということだ。
穴を塞いで、中の水を汲み出して、それを維持し続ける。
「相当な力技だな」
「そうね。でも、そこまでしてでも調べたいものがあるってことでしょ」




