第12話 日常という名の風景
三限の講義は、教授の声がずっと同じ高さで続いていた。
手元のノートには、さっきから同じ行が並んでいる。
昨日の明け方に見たものが、まだ頭から抜けていなかった。
聖樹の下から地上に戻ったら空が白んでいて、ナギさんの紅い着物が、朝日で燃えるみたいに見えたこと。
いけない。切り替えよう。
そう思って顔を上げたら、今度は前の席が気になった。
男子学生が、さっきから五分おきに背筋を伸ばしている。
たぶん、あと二回か三回で完全に諦めて突っ伏す。
そのくらいのペースだった。
……また、やってる。
ジンさんが次にどこへ跳ぶかを読むのと、たぶん同じ感覚だ。
人の動きを見ていると、次に何をするかが勝手に浮かんでくる。
ゲームの中でやっていることが、そのまま現実に染み出してきているみたいだった。
自分では便利だと思っている。
ただ、口に出すと友人には気味悪がられるので、言わないようにしている。
案の定、前の席の彼は二回目で突っ伏した。
結局、今日の講義の内容は半分も頭に入らなかった。
「みーなー」
講義棟を出たところで、背中から声がぶつかってきた。
振り返るより早く、肩に腕が回される。
「理沙」
「三限どうだった?」
「寝てる人が多かった」
「そりゃそうよ。あの教授、声に抑揚がないもん」
桜庭理沙は、私の顔を覗き込んで満足そうに笑った。
一つ結びにした黒髪が、動きに合わせて肩の上で跳ねる。
ゲームの中のポニーテールと同じ結び方だ。
本人は「わざわざ変える意味がないでしょ」と言っていた。
「時間ある? お昼まだでしょ!」
「あるけど」
「じゃ、行こ。あそこの席取れるうちに」
言うが早いか、理沙はもう歩き出していた。
私の返事を待たない癖は、たぶん一生直らない。
学食の窓際は、この時間だと運が良ければ空いている。
理沙は迷いなくその一角を目指して、案の定、空いていた二人席に鞄を置いた。
この人はこういうところの勘がいい。
「で?」
トレーを置いて座るなり、理沙が身を乗り出した。
「昨日のあれ、まだ興奮冷めやらないんだけど」
「ナギさんのこと?」
「そうよ。まさか本当に入るとはねぇ」
理沙は箸を割りながら、少しだけ得意げな顔をした。
「あの子、一年くらい前から誘ってたのよ。全部断られてたけど」
「そうだったんだ」
「それがあなた一人に説得されるんだから、世の中わからないわ」
説得したつもりはなかった。
ただ、あの時に見えていたことを、そのまま口に出しただけだ。
ナギさんに必要なのは、敵が動かないことじゃない。
次にどこを向くかが事前にわかることだ。
それは戦っているところを見ていれば、たぶん誰でもわかる。
そう言ったら、理沙は呆れた顔をした。
「誰でもわからないわよ!」
「そうかな」
「そうよ。……はぁ、ほんと」
理沙は味噌汁の椀を持ち上げて、少しだけ間を置いた。
「あなた、変わったわよね」
不意打ちだった。
「そう?」
「そう。前だったら、あの場面で絶対しゃべってない」
それは、否定できなかった。
一ヶ月前の私なら、ナギさんが背を向けた時点で何も言えなかったと思う。
合わないのは事実だったから、と自分に言い聞かせて、黙って見送っていた。
実際、そうやって一度置いていかれている。
「……そうかも」
「そうよ」
理沙は満足そうに頷いて、それから何気ない調子で言った。
「で。ジンさんって、実際どんな人なの」
箸が止まった。
「どんな、って」
「そのままの意味よ」
何気ない調子だった。
でも、たぶん何気なくはない。
理沙がこういう聞き方をする時は、だいたい前から気になっていたことを、ようやく切り出している時だ。
「……あんまり、知らない」
正直にそう答えた。
「会社員だってことくらい。あとは、朝が弱いのと、仕事の愚痴を絶対言わないこと」
「愚痴を言わないの?」
「うん。忙しいとは言うんだけど、内容は言わない」
「ふぅん」
理沙は椀を置いて、それきり何も言わなかった。
聞かれるかと思った。
名前とか、歳とか、どこに住んでいるのかとか。
けれど理沙は箸を動かして、窓の外を眺めているだけだった。
そういえば、この人はゲームで出会った相手のことを、あまり詮索しない。
ナギさんのことも、一年一緒に潜っていて、何か作る仕事らしい、ということくらいしか知らないと言っていた。
向こうから話さないものは聞かない、というのが理沙のやり方らしい。
だから、たぶん今の質問は例外だった。
何を考えて聞いたのかまでは、読めなかった。
バステトのゲート前で、理沙がジンさんを見ていた時の目を思い出す。
好奇心と、それから何か別のもの。
パーティーの相手を見に来た人の目ではなかった気がする。
「……なによ」
「ううん、なんでもない」
たぶん、聞いても答えないと思った。
二ヶ月前のことを、少しだけ思い出す。
私が大学に来られなくなっていた時期に、この人は毎日連絡をくれた。
理由は一度も聞かれなかった。
そのうち唐突に「ゲーム買いなさい」と言い出して、言われるままにログインだけしていたら、いつの間にか装備一式が届いていた。
あの時から、たぶん何も変わっていない。
心配の仕方が、少し不器用なだけだ。
「理沙」
「なによ」
「ありがとう」
「……なんでそこでお礼が出てくるのよ」
理沙は不服そうに眉を寄せて、それから諦めたように笑った。
「まぁいいわ。とりあえず、あと四日ね」
「四日後の、あれ。私まだよくわかってないんだけど」
「限定インスタンスダンジョンね」
理沙は箸を置いて、指を四本立てた。
「イベント期間中だけ開く、隔離型のダンジョン。四人ぴったりじゃないと入れないの。他のプレイヤーは絶対に入ってこない」
「フリーダンジョンと全然違うんだ」
「まるっきり違うわよ。あっちは広い野原みたいなものだけど、こっちは完全に作り込まれた部屋。ギミックだらけで、力押しじゃまず抜けられない」
そこで理沙は、ちょっと嬉しそうな顔をした。
「今回のは『沈鐘の海楼』。リヴァイアの沖に沈んでる遺跡ですって」
「リヴァイア……行ったことない」
「アタシもよ。海洋王国だもの」
沈んでる、という言葉に引っかかった。
「沈んでるって、水の中を泳ぐの?」
「泳がないわよ! 抜いてあるの」
「抜く?」
「リヴァイアって精密工学の国でしょ。調査するのに、わざわざ排水機構を組んで中の水を出したんですって」
理沙は指先で、下向きに何かを押し流す仕草をした。
「だから中は乾いてるわ。ただし壁の向こうは全部海。窓の外に深海が広がってるって触れ込みね」
想像してみる。
乾いた石の廊下と、その壁一枚向こうに沈んでいる暗い水。
悪趣味だと思ったけれど、少しだけ見てみたくもあった。
「その機構って、止まったらどうなるの」
「戻ってくるでしょうね、当然」
「……戻ってくるんだ」
「そこがギミックなんじゃない? 知らないけど」
「ミナ、顔に出てるわよ!」
「え」
「今からもう組み立ててるでしょ! やめなさい、情報出てないんだから」
図星だった。
「……癖なんだよね」
「知ってる」
理沙は笑って、それからトレーの上を片付け始めた。
「ま、どうせ初見は無理よ。何回か死んで覚えるものなんだから」
死ぬ、と軽く言えるのがこの人らしい。
実際、ARの死亡ペナルティはそこまで重くない。
衰弱状態がしばらく続くだけで、装備も経験値も失わない。
それでも、と思う。
昨日のナギさんが石床に叩きつけられた時のことを思い出すと、あまり軽く考えたくはなかった。




