第8話
天井の蛍光灯が、白くぼやけて視界に飛び込んできた。
ツンと鼻を突く消毒液の匂いと、酸素マスク越しに届く乾燥した空気。
(……俺、手術……終わったのか)
点滴の管が繋がれた腕。そして遅れてやってくる、右膝の重苦しく、鈍い激痛。
全身麻酔の残滓のせいで頭が酷く重く、舌が上顎に貼りつくように乾いていた。
「あら? ……隼人? 目が覚めたの?」
ベッドの脇から声をかけてきたのは、心配そうに顔を覗き込む母親だった。
麻酔の吐き気と格闘しながら、隼人はかすれた声で「……ん」と短く返事をする。
「よかった……無事に終わったって、お医者様が言ってたわよー。それにしてもお母さんドキドキしちゃった! よくドラマで手術室の前で待って、手術が終わったら電灯が消えるじゃない? てっきり手術室の前で待つのかと思ったらこの病院は違うみたいね!」
相変わらずマイペースな母親の顔を見ながら、隼人はぼんやりとした頭で病室を見渡した。
……そこに、期待していた姿はない。
「……舞花は」
「え? 舞花ちゃん? ううん、来てないわよ」
母親のあっさりとした返答に、隼人の胸の奥が冷たく冷えていく。
あの着信を無視して、距離を置いた。だから来ないのは当たり前だ。分かっていたはずなのに、どこかで期待していた自分が情けなかった。
ふと、床頭台の上に視線をやると、小さなガラスの花瓶に生けられた小ぶりの花が目に入った。
「……これ、何」
「ああ、お花ね。隼人がまだ手術室にいる時に、誰かが置いていってくれたみたい。……そういえば隼人、あのかわいらしいお嬢さん、誰かしら?」
「……え?」
「隼人が手術中だったから会えなかったんだけどね。小さめの可愛らしい女の子が来届けてくれたの。『先輩にお大事にって伝えておいてください』って。……舞花ちゃんじゃないし、バスケ部の後輩かしら?」
「っ……!」
隼人の背筋を、一筋の冷たい汗が伝った。
母親が舞花と見間違えるはずがない。幼少期から家族ぐるみの付き合いがあり、何度も家に泊まりに来ていた舞花を、母親が『かわいらしいお嬢さん』などと他人行儀に呼ぶはずがないのだ。
——君嶋美羽。
(あいつが来てたのか?)
おそらく 美羽が来た。そして花を置いていった。
拒絶したはずの自分が眠っている間に、彼女は静かに、侵入するようにここまでやってきたのだ。
隼人は床頭台の花を見つめた。
♢
手術後、ベッドに縛り付けられて数日。
絶対安静から安静、くらいになったころ。
母親が買い出しで席を外した隙を狙い、隼人は点滴スタンドを支えにベッドから身体を起こした。
「くっ……つ……!」
松葉杖を使っているとはいえ、右足に体重をかけた瞬間、膝を太い針で貫かれたような激痛が走り、思わず声が漏れる。
だが、じっとしていられなかった。リハビリが始まる前に、自分の脚がどれくらい死んでいるのか、確かめずにはいられなかったのだ。
松葉杖に体重を預けながら、引きずるようにして病室の外へ出る。
静まり返った病院の廊下。白いリノリウムの床を踏みしめようとするが、右足はまるで冷たい丸太のように感覚がなく、ただ激しい痛みだけを主張してくる。
(こんなはずじゃない……っ、たかが歩くだけだろ……!)
一歩、二歩。
自分の不甲斐なさに歯を喰いしばり、もう一歩を踏み出そうとした瞬間、右膝が笑うようにガクリと折れた。
「っ——!?」
点滴スタンドごと倒れそうになる視界。
思わず目を瞑った隼人の体を、受け止めるように抱きすくめたのは——驚くほど細い、けれど確かな腕だった。
「……無理しちゃダメですよ、先輩」
耳元で聞こえたその声に、隼人は目を開けた。
そこにいたのは、制服姿の君嶋美羽だった。隼人の体をしっかりと支えながら、彼女は優しく甘い眼差しで見上げていた。
「君嶋……なんで、お前が……」
「なんでって……先輩が心配だったからに決まってるじゃないですか。ほら、ちゃんと掴まってください」
「……触るな。自分で戻れる」
「強がらなくてもいいんです。今の先輩、一人じゃ病室に戻ることすらできないんですから」
美羽は隼人の拒絶を意に介さず、肩を貸すようにして強く引き寄せた。
悔しさと惨めさで唇を噛み締めながらも、実際一人では立つことすらままならない隼人は、屈辱に耐えて美羽に体重を預けるしかなかった。
静かな歩調で病室に戻り、隼人は逃げるようにベッドへと体を預けた。
美羽は慣れた手つきで点滴の位置を直すと、隼人の母親が座っていたパイプ椅子を引き寄せて、ちょこんと腰掛けた。
「……助けてもらったのは感謝する。だけど、もう帰ってくれ。俺は——」
「舞花と付き合ってるから。ですか?」
美羽は隼人の言葉を途中で遮り、くすりと笑った。
床頭台の上に置かれた小さなガラスの花瓶——美羽が置いていった花を見つめながら、彼女は小さく首を傾げる。
「冷たいんですね、先輩。こんなに心配して真っ先にお見舞いに来てあげたのに。……あの『先輩』は、ここにはいないのに」
「舞花は……関係ないだろ」
「関係ありますよ。だって、先輩が一番苦しくて、一番情けない姿を見せたくない時に、ここにいるのは私なんですから」
美羽は椅子から身を乗り出し、ベッドに横たわる隼人の顔に顔を近づけた。
夕空の光が病室の窓から差し込み、美羽の瞳を赤く染めている。
美羽のまっすぐな瞳に見つめられて、奇妙な気恥ずかしさを感じてついつい視線をそらしてしまう。
「これから始まるんですよ。地獄のリハビリが。自分の足なのに思い通りに動かない惨めさと、毎日毎日向き合うんです。……あの人に、そんな先輩を受け止められますか?」
「…………」
「私なら、受け止められますよ。だって……私の方が、先輩の痛みを全部知ってるんですから」
美羽の言葉は、まるで麻痺した膝に染み込んでいく毒のように、静かに、けれど確実に隼人の心を侵食していくのだった。
本当は勝手に歩き回ってはいけないよ?
病院で入院中の患者がこけたりすると、転倒っていって、看護師さんは始末書みたいなやつを書かなくちゃいけないんだよ?
これはフィクションなんだよ。




