第9話
退院するまでにやることが多く、隼人は舞花に会えなくても気をやれるほど余裕はなかった。
まずはベッドから自力でおりる訓練。ずっと足を固定しているので血流をよくする運動。松葉杖を使って歩く訓練。などなど。慌ただしく時間が過ぎていった。
そして退院して自室に戻ったところで、彼の止まっていた時間が動き出すわけではなかった。
朝、窓の外から聞こえる登校の喧騒や、遠くから聞こえる学校のチャイム。
かつては当たり前だったその日常が、今の隼人には果てしなく遠い、別の世界の出来事のように思えた。
(出席日数……もうギリギリだな)
机の上に置かれたプリントには、担任からの無機質な連絡事項と、欠席日数のカウントが記されていた。
ただでさえ普通科編入で授業についていくのに精一杯だったのに、このままでは進級すら危うい。元バスケ部のエースとして活躍してプロになる夢も、推薦で大学に行くはずだった未来も、コートを走る日常も、すべてがすり抜けて消えていく。
「はぁ……っ」
そして通勤通学の時間帯が終わり、人の気配がほとんどしなくなった時間帯になって、ようやく隼人は自室から出る。松葉杖を強く握りしめ、家を出て近所の整形外科クリニックへと向かった。徒歩にして十分ほどの距離ではあるが、今の隼人では通院だけでおよそ三倍ほどの時間がかかった。
通院でのリハビリは、想像を絶する拷問だった。
理学療法士に支えられながら平行棒の間を歩くが、右膝は生まれたての小鹿のようにガタガタと震え、激痛とともに笑ってしまうほど力が力が入らない。
「青葉さん、焦りは禁物ですよ。無理に体重をかけないで、ゆっくり」
「……わかって、ます」
バスケをしていたころさえ流したことのない量の汗を、流れる滝のように額から大量に流し、膝を庇いながら足を一歩前へ踏み出す。
たかが歩くだけ。以前なら無意識に、呼吸するようにできていた動作すらできない。
自分の身体でありながら、自分のものではないような強い不快感と惨めさが、胸の奥で黒く渦巻いていた。
リハビリを終え、汗を拭いながらクリニックのロビーへと戻ると、そこに思いがけない人物が座っていた。
「……隼人」
パイプ椅子から慌てて立ち上がったのは、制服姿の佐々木舞花だった。
放課後、わざわざ隼人の通院時間に合わせて先回りして待っていたのだろう。彼女の手には、隼人が休んでいる間の授業ノートとプリントが大切そうに抱えられていた。
「舞花……なんで、ここに」
「先生から、隼人のリハビリの時間を聞いて……。あの、これ……今日のノート。隼人、出席日数やばいでしょ? 少しでも役に立てばと思って……」
さっさんに個人情報保護の常識はないのか? 呆れて隼人はため息を吐いた。
それが舞花の目にどう映ったのか、体をビクッと震えさせ、気まずそうに目を泳がせながら、控えめにノートを差し出してきた。
その顔はどこか疲れていて、目の下にはうっすらとクマが浮き出ている。
隼人に着信を拒絶され、疎まれているのではないかという不安と葛藤しながらも、それでも必死に隼人のために動こうとしているのが痛いほど伝わってきた。
「……ありがとな」
ノートを受け取る隼人の声は、どうしても硬くなってしまう。
自分のこんな情けない姿を見られたくない。松葉杖がないと歩けず、汗まみれになって足を引きずる自分と、普通に学校に通い、未来へ向かって進んでいる舞花。
その対比が、隼人の自尊心を容赦なく切り刻む。
「……送ろうか? 荷物、持つよ」
「いい。一人で帰れる。……舞花こそ、勉強とかあるだろ」
「そんなの……隼人のほうが大事だよ」
舞花の言葉はどこまでも優しく、温かかった。
だが、恋という感情を知らない隼人にとって、その温もりは「俺のせいで舞花を縛り付けている」という重たい責任感と罪悪感へと変換されてしまう。
(俺は……舞花を好きなのか? それとも、なんとなく付き合ってるだけなのか……?)
笹原に言われた言葉が脳裏をよぎる。
そして、美羽に囁かれた「あの人は今の先輩を見てない」という毒のような言葉が、彼の弱った心に影を落として波紋のように広がっていく。
「……じゃあ、途中まででいいから。一緒に行こ?」
舞花は無理に明るい笑顔を作ると、隼人の斜め後ろを、歩幅を合わせるようにゆっくりと歩き始めた。
茜色に染まり始めた帰り道。ふたりの影が長く伸びる。
けれど、その影は以前のように重なるどころか、人ひとりが入れるほどに離れていた。




