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夕空の向こうで  作者: あさくらまひろ
青葉隼人

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第7話

「っ……!? き、君嶋美羽……!?」


 背後から突然回された腕の細さと、後頭部に触れる柔らかい感触に、隼人は息を呑んで体を硬直させた。

 制服越しに伝わってくる体温。耳元で聞こえる吐息が隼人の心拍数を跳ね上げる。


「……なにしてーんすか、せんぱーい。そんな悲しそうな顔してスマホ見つめちゃってー」


 美羽は抱きついた腕にふっと力を込め、隼人の首元に顎を乗せるようにして画面を覗き込んできた。

 画面に浮かぶ『着信6件 佐々木舞花』の文字。美羽はそれを視界に収めると、鼻で小さく嘲笑った。


「あっはー! ……必死ですね、あの人。自分のついた『大丈夫』って嘘が崩れるのが怖くて、必死に追撃してきてるんだー。惨めだと思いません?」


「……離れろ、君嶋美羽」


「ヤでーす。……せんぱーい、冷たいじゃないですかー。私、先輩のこと助けてあげようと思って声かけたのにー」


 美羽の手が、するりと隼人の胸元へと回ってくる。

 その指先は、まるで隼人の心臓を直接握りつぶそうとしているかのように繊細で、怪しい滑らかさを持っていた。


「あの甘ちゃん先輩と一緒にいても、先輩は一生救われませんよー。……だってあの人、傷ついた先輩を見てないんだから。でも……私なら分かりますよー。絶望も、冷たい床の痛さも、二度と戻れない絶望も……全部、私なら分かってあげられます」


 耳元で囁かれる言葉は、あまりにも魅惑的な悪魔の囁きだった。それになぜだかいつもより口調が甘い気がする。隼人の心臓がより早く脈を打つ。

 君嶋美羽は自分と同じ傷を持つ者。自分の痛みを言わずとも理解してくれる唯一の存在。

 ここで美羽の手を取ってしまえば、どんなに楽だろうか。舞花への罪悪感からも、自分が惨めであるという恐怖からも、今すぐ逃げ出せるのかもしれない。


 ——だが。


(……俺は、まだ誰のことも好きになったことなんてない)


 ふと、隼人の頭の中に冷や水のような思考が広がった。

 そうだ。自分は、まだ恋というものを知らない。

 舞花に告白された時も、彼女の必死さに流され、居心地の良さに甘えただけだった。

 美羽の言葉に揺れている今だって、彼女に恋をしているからじゃない。ただ、楽になりたいという弱さに惹かれているだけだ。


 好きとか、嫌いとか、そんな恋愛感情は、最初から持ち合わせていなかった。


 けれど——。


「……冗談でも、そういうことすんのやめろ」


 隼人はぐっと歯を食いしばると、胸元に回されていた美羽の細い腕を、力任せに払いのけた。


「きゃっ……!」


 意図せず強く振り払われた美羽は、バランスを崩して数歩よろめき、驚いたように目を丸くした。


「……っ、先輩……?」


「俺は……今、舞花と付き合ってる」


 短く、硬い声だった。

 そこに情熱や愛しさといった色彩はない。ただ、笹原に「自分から逃げるな」と背中を押された直後の、隼人なりの意固地な筋の通し方でしかなかった。


「……付き合ってるから何なんですか? あんな、先輩の本当の姿から目を背けてる人といて、幸せになれるとでも思ってるんですか!?」


「幸せとか、そういうんじゃねえよ」


 隼人は杖を強く握り直し、ゆっくりと立ち上がった。

 膝の痛みが走るが、美羽の視線を真っ直ぐに見り返す。


「俺が選んで、俺が付き合うって決めたんだ。……舞花を傷つけたのも俺だし、日和って逃げてんのも俺だ。だから……俺から舞花を捨てるような真似は、絶対にしない」


「……っ!」


 美羽の表情が、一瞬で歪んだ。

 余裕めいた嘲笑は完全に消え去り、そこにあるのはただの傷ついた一人の少女の顔だった。


「……後悔しますよ。……絶対に、後悔するんだから……!」


 美羽は吐き捨てるように叫ぶと、不規則な歩幅で夕陽の沈む廊下の奥へと走り去っていった。


 静まり返った中庭に、一人取り残される隼人。

 風が吹き抜け、手に持ったスマホの画面が再び明滅した。


『着信7件 佐々木舞花』


 隼人は電話に出ることなく、そのまま自身も夕陽に消えていった。


「今は、距離を置いたほうがいい……」


 そう呟いて。


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