第12話
それから、さらに数年の年月が流れた。
大学を卒業した律は、母校である赤音学園の国語教師となった。
かつて勉強が大嫌いで、授業中に良人とこっそりノートを回し合っていたあの律が教師になるなんて、当時の自分が聞いたら口を挟んで笑い出したかもしれない。
「先生、今日の朗読もすっごく良かったです!」
「りっちゃんせんせー! 板書の文字が崩れてて読めないよ! もっとちゃんと書いてー!」
「も、もうっ、分かってるわ! 次は綺麗に書くから許しなさい!」
感情のこもった律の朗読は生徒たちの間で物語の世界に入り込めると大評判だった。けれど、焦って黒板に向かうとついつい文字が乱れてしまい、生徒たちに笑われながら怒られるのも日常茶飯事だった。
その朗読の上手さは、返事のない病室で何年も、何年も本を読み聞かせ続けてきた時間の証でもあった。
そしてなにより、律にとっては良人がいることの、またとない証でもあった。
♢
空が朱色に染まり始める放課後。
律は今日も変わらず、あの個室のドアを開ける。
鞄を置き、良人のベッド脇の丸椅子に腰を下ろすと、今日学校で起きた出来事や生徒たちとのやり取りを、語りかけるように話し始めた。
「聞いてよ良人。今日の二年生の授業でね、また板書が汚いって怒られちゃった。自分ではちゃんと書いてるつもりなんだけどな……」
笑いながら話していた律だったが、ふと、穏やかに眠り続ける良人の顔を見つめるうちに、胸の奥からこみ上げてくる熱いものを抑えきれなくなった。
静かな病室。聴こえるのは心拍数を刻む規則的な機械音。
「……良人……っ……さみしいよ……」
ぽろぽろと涙が溢れ出し、律は良人の胸元に顔をうずめて声を押し殺して泣いた。
どれだけ前を向いて生きていても、どれだけ大人になっても、彼の声が聴きたい、彼と目を合わせたいという想いが消えることはなかった。
ひとしきり涙を流した後、律は深く息を吐き、目元を拭って立ち上がった。帰り支度を整えながら、ふと良人の左手に目をやる。
少し痩せてしまった彼の薬指で、あの成人式の日に贈ったシルバーの指輪が少しだけ緩んでいた。
「もう……ずれたら大変じゃない」
律は愛おしそうにその手を取り、指輪が抜けてしまわないよう、ゆっくりと奥まできっちりとはめ直した。
そして、彼の唇にそっと唇を寄せる。
「また明日来るね、良人」
愛を込めた口づけを残し、律が静かに背を向けて病室のドアノブへ手をかけた、その時だった。
『……り……、つ……』
「―――え?」
声。
かすかな、けれど聞き間違うはずもない声が、背後から届いた。
律の時が止まる。息を呑み、ゆっくりと振り返った。
「良人……!?」
ベッドの上。
固く閉じられていた彼の長い睫毛がかすかに震え、ゆっくりと、本当にゆっくりと開かれていく。
そこには、夕陽の光を映し出した、懐かしい彼の瞳があった。
「良人! 良人……!!」
律は慌ててベッドへと駆け寄せた。
ナースコールを押すことすら頭から吹き飛び、ただただ溢れ出る涙もそのままに、愛しい人の名前を何度も、何度も呼び続けた。
あの日から、十五年。
奇跡は、ついに二人のもとへ訪れたのだった。




