第3話
今日もまた図書室に君嶋美羽がいるかもしれないことに頭痛を覚える隼人は、図書室へ続く廊下を歩きながら、ふと足を止めた。
脇に抱えた杖に重心を預け、制服のポケットを探る。……スマートフォンがない。
「……あそこに忘れてきたか」
放課後の教室だ。
ため息を吐きながら踵を返し、夕陽が差し込む静かな廊下を戻っていく。
クラスメイトたちはすでに部活へ行くか下校しており、校舎内は引き潮のように静まり返っていた。
ガラー、と教室の扉を開ける。
誰もいないと思っていた教室には、夕空の茜色に染まりながら、ひとりポツンと佇む人影があった。
「……舞花?」
自分の机の上に置かれたスマートフォンを取ろうとした手が止まる。
窓際に立っていた舞花が、びっくりしたようにこちらを振り返った。小柄な彼女の小さな肩が、びくっと揺れる。
「隼人……? どうして……?」
「ああ、忘れ物をね。……舞花こそ、なんでまだ残って……」
気まずさが空気を満たす。
怪我以来、二人きりになるとどう接していいかわからず、隼人は無意識にぎこちない作り笑いを浮かべていた。長く共にしてきた二人の間にこのような壁が生まれること自体初めてだ。
いつも太陽のようだった隼人から、初めて向けられた引きつった笑顔。舞花はその違和感に戸惑い、同時にその不器用な笑顔が彼女の背中を押した。
キュッと唇の端を噛み、隼人を見据える舞花の瞳にすっと決意が宿る。
「……隼人。私ね、ずっと言えなかったことがあるの」
透き通った声が、静かな教室に響いた。
「え……?」
「昔から……幼馴染としてじゃなくて、ずっと隼人のことが好きだった」
唐突すぎる言葉に、隼人は息を呑んだ。
「幼稚園の頃から、ずっと。隼人がバスケを頑張ってる姿も、格好いいところも、全部好きだった。でも……告白して振られたら、今の『隣にいる関係』すら壊れちゃうのが怖くて、ずっと言えなかった」
舞花は溢れそうになる涙を必死に堪えながら、一歩、隼人へと踏み出す。
「ずっと妹みたいに扱われてるのも知ってた。でも……っ、今の隼人は、どんどん私から遠くへ行っちゃいそうで……! 頼りないかもしれないけど、私じゃダメかな……!?」
心からの、切痛な叫びだった。
隼人にとって、舞花は生まれた時から隣にいる妹のような存在だった。恋愛対象として意識したことなんて、一度もなかった。たとえ周囲が二人を茶化したとしても、事実そういう関係ではないし、舞花本人も「やめてよ」と言っていたので、隼人自身も舞花がそういう関係を望んではないとも思っていた。
だからこそ、突然の言葉に頭が追いつかず、掠れた声を絞り出すのが精一杯だった。
「舞花……俺、お前のこと妹みたいに思ってたから……そんな風に考えたこと……」
「わかってる! わかってるよ、そんなの……っ!」
言い終わるより早く、舞花が隼人の胸へと飛び込んできた。
華奢な腕が、必死に隼人の背中を抱きしめる。怪我をした脚を庇う隼人は逃げることもできず、その強い力に押し留められた。
「舞花……っ」
言葉を遮るように、舞花が背伸びをして隼人の唇を塞いだ。
柔らかくて、温かくて、けれど少し涙の味がするキス。
屋上で美羽から受けた衝撃的なキスとは全く違う、切なくて痛いほどの必死さが伝わってくる。
唇が離れても、舞花は隼人の胸に顔をうずめたまま、ボロボロと涙をこぼして泣きじゃくっていた。
その小さな肩を、隼人は抱きしめ返すことなく黙って見つめていた。
(俺は……もうバスケも奪われて、何もないのに)
惨めで、居場所を失った自分を、こんなにも必要としてくれる存在。
恋愛感情なのかは自分でもわからない。けれど、今この温もりは、とてつもない心地よさを彼に与える。この甘美な果実を突き放すことなんて、今の弱っている隼人には到底できなかった。
隼人はゆっくりと手を伸ばすと、腕の中の小さな身体を、そっと優しく抱きしめ返した。
「……付き合おう、舞花」
「ほんと……? ほんとに……っ?」
「ああ。こんな俺でいいなら……」
涙でぐしゃぐしゃになった顔を上げて笑う舞花を抱きしめ、優しく微笑み返す。
沈みゆく太陽が、教室の壁に、重なり合うひとつの影をどこまでも長く伸ばしていた。




