第2話
「——な、なんなんだよアイツ……っ!?」
あの放課後、隼人は逃げるようにして屋上を飛び出した。
急な階段を杖をついて、落ちるように駆け下りながら、何度も何度も自分の唇を袖で擦った。けれど、柔らかく冷たい感触と、すれ違いざまに漂った甘い香りは、どれだけ拭っても消えてはくれなかった。
変な女に、いきなりキスされた。
頭の理解が追いつかず、その夜は一晩中、赤くなった顔を枕に押し付ける羽目になった。
そして翌日からの日常は、隼人にとって耐えがたいものへと変わっていった。
「隼人、ノート取っておいたから。あと……これ、隼人の好きな焼きそばパン」
「……ああ、サンキュ。舞花」
舞花は以前と変わらず、どころかそれ以上に健気に隼人の世話を焼こうとしてくれた。
授業についていけない隼人のためにノートを貸し、放課後は部活に行けなくなった隼人に気を遣って、ずっと傍にいようとしてくれる。
けれど、その健気さが痛かった。
『大丈夫だよ、私がずっと傍にいるから』
あの言葉が脳裏をよぎるたび、自分は舞花に哀れまれているのだと、惨めな気持ちが胸を苛む。
舞花もまた、隼人のどこか固く閉ざされた態度に戸惑い、かける言葉を失っていく。以前なら当たり前に笑い合えていた二人の間に、目に見えない分厚いガラスの壁がすっと差し込まれたようだった。
そして——その壁の隙間を縫うように、アイツは現れた。
「青葉先輩。昨日は素敵な唇をありがとうございました」
「っ!? お前、声が大きいだろ……っ!」
休み時間、舞花がトイレや委員会で席を外した一瞬を狙ったかのように、一年生の君嶋美羽が隼人の教室のドアから顔を出してくる。
「何しに来たんだよ。俺は忙しいんだ」
「ふふ、顔が真っ赤ですよ。もしかして、まだあのキスの余韻に浸ってました?」
「浸ってねえよ! あんなの事故だ、事故! カウントすんじゃねえ!」
隼人は必死に冷たい態度を装って適当にあしらおうとするが、美羽は意に介した様子もなく、楽しそうに目を細めて隼人を見つめるだけだ。
舞花がいる時には絶対に近づいてこない。けれど、一人になった瞬間を見計らって、気安く距離を詰めてくる。
「二人だけの秘密ですね」と耳元で囁かれたときは、心臓が跳ね上がって死ぬかと思った。
(なんなんだよ、マジで……)
舞花と一緒にいる時は息が詰まるような絶望の中にいるのに、美羽と話している時だけは、余計なことを考えずに済んでいる自分がいた。
◇
それから一ヶ月後。
隼人は大きな選択を迫られていた。
部活を引退せざるを得なくなった隼人は、スポーツ推薦の特待生枠を放棄し、普通科へと編入することが決まったのだ。
当然、授業のレベルは跳ね上がる。追いつけなければ留年すらあり得る状況で、隼人は放課後、毎日のように図書室へと通い詰めるようになった。
静まり返った夕方の図書室。
窓際の席で、足元に杖を立てかけ、隼人は慣れない数学の教科書と格闘していた。
「あー……クソ、全然意味がわかんねえ……」
頭を抱えて溜め息をついた、その時だった。
コトン、と小さな音を立てて、目の前の席にノートとペンケースが置かれた。
「相変わらず、情けない顔をしてますね。青葉先輩」
制服のネクタイを少し緩めた美羽が、当然のような顔をして対面の椅子に腰掛けたところだった。
「……またお前か。ここは勉強するところだぞ」
「知ってますよ。私も勉強しに来たんですから」
美羽はそう言うと、持参した参考書を開く。
そして、隼人が頭を悩ませていたノートをチラリと覗き込むと、可憐な指先で問題集の一点を指さした。
「そこ、公式の適用を間違えてます。ここは移項じゃなくて、先に因数分解するんですよ」
「……え?」
「貸してください。教えてあげますから」
美羽はそう言うと、椅子を立ち、隼人のすぐ隣へと移動してきた。
ふわりと舞い落ちる、あの香水の甘い香り。
至近距離に迫った美羽の横顔と、耳元で聞こえる落ち着いた声に、隼人は息を呑んだ。
「……お前、一年のくせになんで二年の数学わかんだよ。あとなんでそんな教えんの上手いんだよ」
「こう見えても、勉強は得意なんです。……それに」
美羽は解説を書く手を止めると、ゆっくりと隼人の顔を見つめ返した。
夕陽が図書室の窓から差し込み、彼女の瞳を綺麗な茜色に染め上げていく。
「憧れの人に頼られるのって、悪くないですから」
からかうような、でもどこか真剣な彼女の眼差しに、隼人の胸が強く跳ね上がった。




