第1話
キュッ、とゴム底がコートを噛む乾いた音が、放課後の体育館に響き渡っていた。
青葉隼人にとって、その音は胸を躍らせる最高の鼓動だった。
高く跳び上がり、綺麗なフォームで放たれたボールが吸い込まれるようにリングを通過する。バサッという網の揺れる音と同時に、二階のギャラリーから黄色い歓声が上がった。
「隼人ーっ! ナイッシュー!」
声の主を見上げなくてもわかる。少し高めの、聞き慣れた透き通った声。
手すりから身を乗り出すようにして手を振っているのは、幼馴染の佐々木舞花だ。150センチほどの小さな身体をいっぱいに使って、今日も練習を見守ってくれている。
「おいおい隼人、今日も【お嫁さん】が熱心だなあ」
「茶化すなよ。舞花はただの幼馴染だって」
ニヤニヤと明らかに茶化しにかかってくるチームメイトに、隼人は苦笑いを返した。
幼稚園の頃から、気づけば隣にはいつも舞花がいた。小・中・高とずっと一緒で、隼人がバスケの試合の日(出ても出なくても)には、舞花は必ず観客席の最前列で応援してくれた。
付き合っているわけではない。けれど、お互いにとって隣にいることが当たり前すぎて、周りから【恋人同士】と扱われても、舞花は「もう、やめてよー」と照れくさそうに笑うだけだった。
180センチの体格と、誰もが目を引く端正な顔立ち。さらに彼にボールが回れば確実に点を決めるほどの運動能力。スポーツ推薦で入学したこの高校で、隼人は二年生にしてバスケ部の絶対的エースとして期待を一身に背負っていた。
このまま、どこまでも跳べると思っていた。
あの瞬間までは。
——ガクッ。
「……え?」
相手のディフェンスを交わし、着地した瞬間のことだった。
右膝に、経験したことのない異常な衝撃が走る。まるで、関節の奥で何かが千切れたような、鈍く重い感触。
「ぐ、あ……っ!?」
激痛と共に膝の力が抜け、隼人はコートの上に崩れ落ちた。
「隼人!?」
「おい、大丈夫か!?」
観客たちが一斉にざわつき始め、コート上の選手たちも一斉に駆け寄ってくる。二階のギャラリーからは、舞花の悲鳴のような叫び声が聞こえた。
視界がぐにゃりと歪む。
体育館の蛍光灯の光が、やけに遠く、冷たく感じられた。
◇
「……今後の運動については、正直に申し上げて厳しくなります」
白い壁の診察室。
機械的に告げられた医師の言葉は、隼人の頭の上を滑り落ちていった。
靭帯の損傷、および軟骨の複合的な損傷。
手術と長いリハビリを行えば日常生活に支障はないが、以前のように激しい競技スポーツを行うことは「二度とできない」という宣告だった。
頭が真っ白になった。
自分はスポーツ推薦でこの高校に入ったのだ。勉強が得意なわけじゃない。毎日の授業についていくだけで精一杯で、バスケという武器を奪われたら、自分には何も残らない。
「隼人……大丈夫だよ。私が、ずっと傍にいるから……っ」
病院の帰り道。赤く染まる道で、舞花は涙をボロボロとこぼしながら隼人の服の袖を強く握りしめていた。
健気で、優しくて、温かい言葉。
けれど、今の隼人にとってその優しさは哀れみにしか聞こえなかった。
(俺は……もう、何者でもないんだ)
コートで輝いていた自分しか知らない舞花に、こんな無残な姿を見られたくない。
惨めで、情けなくて、息をするのすら苦しかった。
◇
数日後。
隼人は逃げるようにして、校舎の最上階へと上がってきていた。慣れない杖をついて、手すりにしがみつくように。不用心にも普段から鍵が開けっ放しの扉を背中で押し開ける。夕陽が視界に入り、まぶしくて思わず目を細める。
誰もいない屋上。フェンスに背中を預け、隼人は冷たいコンクリートの上に座り込んだ。
オレンジ色の夕陽が、放課後の街を赤く焼き尽くしていく。
「あはは……なんだよ、これ……」
授業にはついていけない。部活にも行けない。クラスメイトからの同情と嘲笑が混じった痛々しい視線と、舞花の痛々しいほどの気遣い。そのすべてから逃げ出したくて、隼人は膝を抱えて顔を伏せた。
情けない涙がポロポロと溢れ、ズボンにしみを作っていく。
「いつまでそうやって、惨めに泣いてるつもりなんですか?」
突然、上から降ってきたのは凛とした少女の声だった。
「……っ!?」
驚いて顔を上げた隼人の視界に飛び込んできたのは、夕陽を背にして立つ一人の女子生徒だった。
女子にしては背が高く、スラリとした立ち姿。見覚えのない制服のネクタイの色。彼女は一年生だ。
「誰だ……? ここ、立ち入り禁止だぞ……」
掠れた声で問いかけようとした瞬間、少女はすっと隼人の前にかがみ込んだ。
すれ違いざまに漂う、どこか甘くて切ない香水のような匂い。
「美羽。……君嶋美羽。……青葉先輩、あなたのこと、ずっと見てました」
「え……?」
返事をする隙すらなかった。
少女——美羽は、隼人の両頬を両手で強く包み込むと、そのまま迷いなく顔を寄せてきた。
「……んっ!?」
重なる、柔らかくて冷たい唇。
夕空の下で。
放課後の屋上で。
突然のことに隼人の思考は完全にフリーズした。
ほんの数秒の、けれど永遠のように思える温もりが離れていく。
息を呑む隼人の目の前で、美羽は少しだけ悲しそうに、けれど力強い瞳で隼人を見つめていた。
「絶望したふりをして逃げるのは、もう終わり。……私の憧れだった青葉隼人は、そんなダサい人じゃないはずですよね?」
赤く染まる彼女の瞳には、隼人とどこか似たものが宿っていた。




