第10話
律の目が覚めると、まず真っ先に見知らぬ天井が視界に入った。
白く清潔で、無機質な天井。漂ってくる微かな消毒液の匂いと、一定のリズムで聴こえる低い機械音が、そこが病院のベッドの上であることを律に告げていた。しかし目が覚めてすぐの律に状況を理解するのは難しく「ここは……?」と顔だけで周囲を見回す。
「……ん……っ……」
喉がカラカラに干からびていて、掠れた声しか出ない。
体を起こそうとすると、頭の奥にズキリと重い痛みが走った。同時に、事故の直前の光景を思い出して鮮烈な記憶となって脳裏を駆け巡る。
それだけではない。
夢の中で紐解かれた、ずっと封印していたはずの過去の記憶が、濁流のように律の心を埋め尽くしていった。
あの日。
赤信号を無視して道路へ飛び出した幼い自分。
そんな自分を突き飛ばし、代わりに車に跳ね飛ばされた良人。
病室で眠り続ける彼と、耐えきれずに壊れてしまった自分。
「……良人……」
律の目から、溢れ出た涙が頬を伝ってシーツへと落ちていく。
今まで当たり前だと思っていた日常の全てが、自分が作り出した哀しい幻だったのだと、否応なしに理解させられていた。良人はずっと高校に通っていたわけでも、オカルト研究会の副部長だったわけでもない。自分が現実から目を背けるために、島の伝説に縋って生み出した幻影に過ぎなかったのかもしれない。
――そうだ。
良人は幻なんかじゃない。幻影なんかで片付けてたまるか。
確かにあの手書きの付箋はそこにあった。
あの温かい言葉も、一緒に笑い合った放課後も、トラックが迫った絶望の瞬間に庇ってくれたあの感触も。
『怖がらないで。僕が守るから』
『僕に会いに来てね』
あの時、耳元で聞こえた良人の声と、頬に残された柔らかな感触。あれまで全部自分の都合のいい妄想だったなんて、絶対に思いたくなかった。
――良人は確かにそこにいて、私を守ってくれた。
静かだった律の心臓の鼓動が、急速に激しくなっていく。
一度は失われかけた熱が、胸の奥底から勢いよく湧き上がってくるのを感じた。
「良人……」
律はベッドから足を下ろした。
裸足のまま、 点滴スタンドを引きずり、フラつく足を必死に踏みしめる。
重い足取りで病室のドアを開けると、静まり返った白い廊下に躍り出た。
どこへ行けばいいのか、訊くまでもなかった。
5年前に心が砕けて記憶に鍵をかけたあの日、一度だけ立ち尽くした場所。
自分の足が、勝手に場所を覚えている。
エレベーターに乗って、ボタンを押す。
おりると、消毒液の匂いが濃くなっていく。近づくにつれて、胸の高鳴りは破裂しそうなほど大きくなっていった。
そして——最上階の奥まった静かな廊下。
律は、一つの扉の前で足を止めた。
ドアの横の透き通ったアクリル板。そこには、5年前のあの日から時が止まったままの文字で、ハッキリと名前が刻まれていた。
『谷村 良人』
静まり返った個室のドアを挟んで、律の息遣いだけが廊下に小さく響いていた。
意を決して、律は重いドアのノブに手をかけた。
静かな金属音とともに扉が開く。
カーテン越しに柔らかな陽光が差し込む静寂な個室。入口からは角度的にベッドに横たわる良人の顔までは窺うことができない。
けれど、そこに誰かが静かに横たわっている気配を感じ取った瞬間、律の足から完全に緊張が抜けた。
倒れ込むように、転び落ちるようにベッド脇へと駆け寄る。
視界に入ってきたのは、心拍数を刻む規則的な機械音と、5年前の少年の面影を残したまま、静かに呼吸を繰り返している良人の姿だった。
律は震える両手で、そっとその手を取り握りしめた。
まるで神に赦しを乞うように、すがるように、眠り続ける彼の手に額を押し当てる。
「良人……良人……っ……待たせて、ごめんね……!」
一度溢れ出した涙は、もう誰にも止められなかった。
胸を突き刺す激しい後悔と罪悪感。
あのとき、自分が赤信号に気づいていれば。
自分がもっとしっかりしていれば。
良人が自分なんかのために飛び出さなければ、こんな暗くて静かな場所で5年も一人きりで眠り続けることなんてなかったのに。
「ごめんなさい……っ、ごめんなさい……!」
懺悔の言葉だけが、無機質な機械音が響く病室に虚しく溶けていく。
握りしめた良人の手は、あの事故の瞬間に感じた暖かさとはどこか違って少し冷たくて、けれど確かにそこで鼓動を刻んでいた。
律は涙が枯れ果て、声が掠れて出なくなるまで、彼の手を握ったまま泣き続けた。
――どれほどの時間が経っただろうか。
「律……! 律、どこに行っていたの……!」
消えた律を必死で探していた両親が、ドアを激しく開けて駆け込んできた。そして一報を受けて駆けつけた良人のご両親も、息を切らしてその場に立ち尽くした。
「律、だめよ、体を無理させちゃ……!」
両親の手が律の肩に回る。
離したくないとすがる律だったが、半ば引き剥がされるようにして、ようやく良人の手から指が離れていった。
離れていく指先。
それでも、律の瞳にはもう迷いはなかった。




