第8話
目的もなく、心ここにあらずの状態で、律はただ足を動かしていた。
賑やかな学園祭の喧騒から逃れるように校門を飛び出し、気がつけば、律の足が向かっていたのは街のあちこちだった。
どこを歩いても、意識の隅で良人の姿を探してしまう。
良人はどこにいるのだろう。みんなが「妄想だ」と言うのは、いったいどういうことなのだろう。頭の中で疑問と否定が渦巻き、自分の足がどこへ向かっているのかさえ、律にはもう分からなくなっていた。
ただ、無意識のうちに、律の足は『良人と一緒に歩いた場所』の軌跡をなぞるようにして進んでいた。
そして、たどり着いたのは――あの海岸だった。
夕陽の奇跡を求めて、ふたりで自転車を走らせた海。
冷たい潮風が、汗ばんだ頬を撫でていく。
人気のいない防波堤のコンクリートに腰を下ろし、律は膝を抱えたまま、目の前で絶えず寄せては返す波をぼんやりと見つめていた。頭の中は白く真っ白に染まったままで、時間の感覚すらすっかり抜け落ちている。
(私は、本当におかしなことを言っていたの……?)
クラスメイトたちの笑い声が耳の奥で蘇る。
誰も良人の姿を見ていなかった。誰も良人の声を聞いていなかった。百瀬先生も、五十嵐先生も、笹原先生も、みんな律ひとりを相手にしていただけだったのだとしたら。
自分が信じていた温もりのすべてが、自分の孤独な脳みそが生み出した歪んだ幻覚だとしたら。
そんな残酷な想像が胸を締め付け、律の目からぽろりと大粒の涙がこぼれ落ちた。
ふと、震える手で制服のポケットを探ると、あの日からずっと持ち歩いていた一冊のメモ帳が触れた。あのとき、オカルト研究会の調査資料として良人と一緒にまとめ上げた『伝説メモ』だ。
縋るような思いでノートを取り出し、ページをめくる。
そこには、あのとき良人と交わした会話や、調べ上げた噂の数々が書き留められていた。
そのページをめくったとき、パラリと、小さな黄色い付箋が一枚、ノートの隅から剥がれ落ちそうになっているのに気づいた。
「……これ、なに?」
それは伝説やオカルトに関するメモではない。
綺麗に整った、けれど少し癖のある、見覚えのある文字。――良人の字で、その日その日にあったことが書き記されていた。
『今日もパンケーキを美味しそうに食べていた』
『相変わらず無茶ばかり言うけれど、楽しそうな顔をする』
『1つ目の謎が解明できて、こっちまで嬉しくなった』
『いつか、この夕陽の本当の意味を一緒に見つけられたらいいな』
『……今日も、律が可愛かった』
ページをめくるたび、その小さな付箋には、調査の記録ではなく、その日の良人が見つめていた律の姿とその時の気持ちが綴られていた。
付箋をめくる手が激しく震えた。
文字の筆跡は、間違いなく良人のものだった。誰の目にも見えない幻覚だとしたら、こんな風に別の紙に、自分の知らない言葉が物理的なインクとして残されているはずがない。
「……いるじゃない。ちゃんと、ここにいるじゃない……!」
幻なんかじゃない。良人は確かに、あのとき私の隣にいて、私のことを見てくれていた。
胸の奥底から熱いものがこみ上げ、止まっていた涙があふれ出す。律は手の甲で乱暴に目元を拭うと、きゅっと唇を引き結んだ。
もう、俯いてなんかいられない。
学校に戻ろう。そしてみんなに証明してやるんだ。良人は確かにここにいて、私と一緒に生きていたのだと。
律は立ち上がり、海に背を向けて走り出した。
学校へと急ぐ帰り道、海岸沿いの大きな通りに出たところで、赤信号が律の足を止めた。
歩道の白線の手前で立ち止まり、青に変わるのを待つ。吹き抜ける風が、少しだけ冷たかった。
その時だった。
――ぶわああっ!!
海の方から、突風のような猛烈な風が吹き抜けた。
「あっ……!」
風に煽られ、制服のポケットからさっきのメモ帳が浮き上がり、中からあの黄色い付箋がヒラヒラと空へ舞い上がった。良人の手書きの文字が書かれた、たったひとつの大切な証拠だ。
「待って、付箋が……!」
反射的に、律は道路側へと一歩踏み出し、舞い上がった付箋を掴もうと両手を伸ばして小さくジャンプした。
――その瞬間。
ゴォオオオオオオオオオッッ!!
静かな秋の夕暮れを切り裂くような、聞いたこともないような巨大なエンジン音が響き渡った。
視界の端に、真っ黒な巨体が飛び込んでくる。
見通しのいい直線道路を、信じられないほどのスピードで暴走してきた大型トラックだった。
運転席をちらりと見た瞬間、血の気が引いた。
運転手の頭はぐったりとハンドルに預けられており、完全に意識を失っているように見える。制御を失った数トンの鉄の塊が、何の減速もせず、そのままの勢いで律のいる歩道へと突っ込んできていた。
「っ!」
付箋を取るためにジャンプし、まさに地面へ着地したばかりのその瞬間。
あまりの急展開と恐怖に、律の体は完全に硬直してしまった。
動かない。足が一歩も、指一本すら動かない。
迫り来る巨大な鉄の影と、ヘッドライトのまばゆい光が、律の瞳いっぱいに広がっていく――。
『怖がらないで。僕が守るから』
死の恐怖に体が強直する中、耳元で聞き慣れた優しい声が響いた。
次の瞬間、迫り来る巨大なトラックと律の間に、すっと人影が立ちはだかる。
制服姿の高校生の良人ではない。どこか幼く小柄な、今の面影を残した小学生の良人の姿だった。
「りょう、と……」
掠れた声で、律は彼の名を漏らした。
男の子は振り向くと、怯える律の顔を見つめ、どこか愛おしそうにふっと微笑んだ。そして、幼い唇を律の頬にそっと寄せる。
『僕に会いに来てね』
囁くような言葉を残し、彼は向かってくる暴走トラックに向かって右手を静かに構えた。
その瞬間、あり得ない光景が広がった。
猛スピードで突っ込んできていた数トンの巨大な鉄塊が、まるで目に見えない不可視の力に弾かれたかのようにぐにゃりと挙動を変える。物理法則を完全に無視し、車体を極限まで大きく傾けながら片輪だけで滑走すると、律の体のわずか数センチ横をかすめるようにして通り抜けていった。
――ガッシャァアアンッッ!!
ガードレールを薙ぎ倒し、ひしゃげる巨大な金属音とガラスの砕ける鋭い音が夕暮れの海岸通りに響き渡る。タイヤが地面を削る激しい摩擦音とともに、引きちぎられたゴムの焦げ臭い匂いが一気に周囲に立ち込めた。
あまりの恐怖と緊張、そして目の前で起きた衝撃に、律の全身から一気に力が抜けた。
膝から折れ曲がり、浮遊感とともに意識が暗転していく。
(良人……)
最後に見えたのは、朱色に染まる夕空と、どこか悲しげに笑う良人の小さな影だった。律の体はそのまま、アスファルトの上へと崩れ落ちるように倒れ込んだ。
暴走していたトラックは、ひしゃげたボディを煙らせながら沈黙している。
まばゆく明滅するヘッドライトと、波打ち際から聞こえる絶え間ない波の音だけが、倒れた律を包み込んでいた。
やがて、事故に気付いた近隣の住民たちが悲鳴を上げながら駆け寄ってくる足音が近づいてくる。
「おい、大丈夫か!?」
「少女が倒れてるぞ! 誰か、早く救急車を呼んでくれ!」
遠くから鳴り響き始めたサイレンの甲高い音が、茜色から群青色へと変わりゆく秋の空に、少しずつ近づいてきていた。




