第7話
「律。落ち着いて聞きなさい」
律の父親は、律の肩に手を置き、まっすぐ目を見て言う。
「良人くんは、ここにはいないんだよ」
廊下の喧騒が、一瞬にして遠のいていくようだった。
「な、何言ってるのよお父さん……。良人がいないって、おかしいじゃない。だって、だって良人はこの学校の生徒なのよ? さっきまで一緒にいたのよ!?」
律は強張った笑顔を張り付けたまま、引きつった声を上げた。だが、両親の顔に浮かぶ悲し気な表情は消えるどころかますます色濃くなるばかりだった。
「律……お前、まだそんなことを……。良人君は5年前の事故からずっと病院で……目を覚ましていないんだぞ? ここにいるはずがないじゃないか……」
「やめてよ!!」
律は叫んでいた。耳を塞ぎたくなるような言葉を振り払うように、両手を激しく振る。
「嘘よ! そんなの嘘! だって良人はずっと私と一緒にいたの! 高校に入ってからも、毎日、いつもいつも! ずっと私の隣にいてくれたのよ! オカルト研究会の調査だって、今朝だって、さっき看板を持って呼び込みに出る直前まで……ずっと私と一緒にいたんだから!!」
パニックに陥った律の視界が、ぐにゃりと歪む。胸の奥が焼きちぎられるような恐怖に襲われ、律は両親の制止の声を振り切って走り出した。
どこかにいるはずだ。照れくさそうに頭を掻きながら、「急に走り出してどうしたの?」なんて呆れ顔で笑っている良人が、すぐ近くにいるはずなのだ。
「良人! 良人、どこにいるの!?」
学園祭の、色とりどりの装飾で飾られた廊下を、大勢の来場客を押しのけるようにして駆け抜ける。
中庭、職員室、図書室への渡り廊下、昨日まで一緒にクレープの試作をしていた調理実習室。どこを探しても、あの見慣れた背中が見当たらない。
息を乱し、膝を震わせながら、律は自分の教室へと戻ってきた。甘い香りが漂う店内では、エプロン姿のクラスメイトたちが慌ただしくクレープを焼き、皿に盛り付けている。
「はぁ、はぁ……、みんな! 良人見なかった!? さっきから探してるんだけど、どこにもいないのよ!」
必死の形相で叫んだ律に、店内が一瞬しんと静まり返った。
鉄板の前でフライ返しを持っていた男子生徒や、注文を取っていた女子生徒たちが、困惑したような苦笑いを浮かべて顔を見合わせる。
「え……りょうと、くん?」
「男子ー! 良人くんってどこ行ったか知らないー?」
「良人って誰だっけー!? うちのクラスにそんなやついたっけ?」
口々に交わされる軽いやり取りに、律の心臓が不吉な音を立てて跳ね上がる。
だがその時、窓際の席で皿を下げていた一人の女子生徒がポンと手を打った。
「あ、わたし知ってるよー!」
その言葉を聞いた瞬間、律の胸にぶわっと安堵が広がった。全身の力が抜けそうになる。
(なによ。やっぱり良人はここにいるじゃない。みんながうっかり忘れていただけじゃない)
「どこ!? 良人、どこに行ったの!?」
すがるような思いで身を乗り出す律。けれど、女子生徒の口から返ってきた言葉は、律が今まさに必死で繋ぎ止めようとしていた世界を、容赦なく打ち砕くものだった。
「りょうと、くん? ってあれだよね。いつも中原さんが言ってる、妄想の彼氏」
「――――え」
声が、出なかった。喉の奥がカラカラに干からびて、呼吸の仕方すら分からなくなる。
「え!? なにそれ!?」
「なにそれウケるんだけど! 詳しく教えてよ!」
その一言に、周囲のクラスメイトたちが一気に興味津々な顔をしてその女子生徒の周りに集まり始めた。
「ほら、たまに中原さんが誰もいない横に向かってひとりごと喋ってるじゃない? テストの前とか、部活の紙出してる時とか。あれって妄想の彼氏と喋ってるんだよー」
「あはは、なにそれ! もしかしてイマジナリーフレンドってやつ!?」
楽しげな笑い声が、教室中に弾ける。
律は何を言われているのか、全く理解できなかった。
妄想? イマジナリーフレンド? 誰のこと?
良人はずっと一緒にいた。
だって、良人と一緒に喫茶店でテストの反省をしたし、夕陽の奇跡について聞き込み調査も行った。夜の校舎に忍び込んでベートーヴェンの胸像や人体模型の謎を解いた時だって、良人は隣で懐中電灯を照らしてくれていた。授業だって、いつだって隣の席で――。
――そこまで考えて、律の中でガタガタと音が立てて何かが崩れ去っていった。
そういえば、と。律の中で違和感が広がっていく。
良人が、律以外の誰かと喋っているところを、一度でも見たことがあっただろうか。
百瀬先生も、五十嵐先生も、笹原先生も。みんな律の言葉に答えていただけだった。
良人が何かを提案する時も、いつも律が間に挟まっていた。
良人が手を繋いでくれた時、その手の温もりを感じていたのは律だけだった。
良人が頭を撫でてくれた時、周りの生徒たちは律のことをどんな目で見つめていただろうか。
良人の履いていた上履き。良人の机。良人が使っていたはずのノート。
記憶を辿れば辿るほど、良人という存在の「影」が、世界から綺麗に抜け落ちていく。
(嘘……嘘嘘嘘嘘、嘘よ……!)
頭の中が真っ白になり、足元から世界が崩壊していくような激しい目眩が律を襲った。
自分が今まで見ていたものは何だったのか。自分が信じていた『当たり前』は、すべて自分の頭が作り出した歪んだ幻だったのか。
「中原さん……? 大丈夫……?」
さっきまで笑っていたクラスメイトのひとりが、血の気の引いた律の顔色を見て、恐る恐る声をかけてきた。
だが、その声も律の耳には届かない。
律は糸が切れた人形のように、ゆっくりと一歩を踏み出した。
手からカラフルな手書き看板が滑り落ち、床にパタンと乾いた音を立てて転がる。
自分がどこへ向かっているのかも分からないまま、律はただフラフラと、我を忘れた様子で廊下へと歩き出していった。
そのあまりにも異様な姿に、クラスメイトたちは誰ひとりとしてそれ以上声をかけることができなかった。




