第3話
翌日の放課後。
律たちはさっそく、パンフレットで目星をつけたターゲットの一人——古株の古典教師、百瀬先生の聞き込みに向かうことにした。
歴史を感じさせる重々しい扉を叩き、律は意気揚々と職員室へと足を踏み入れる。
「失礼しまーす! 百瀬先生、いらっしゃいますか?」
「おや、中原さんかね。こんな放課後にどうしたんだい?」
眼鏡の奥の目を細め、デスクで和書をめくっていた百瀬先生が律を振り返る。
「実は先生に、この赤音島の昔話……特に『夕陽の奇跡』についてお伺いしたくて!」
「ほう、『夕陽の奇跡』とな。1年生が珍しいことに興味を持つものだ」
百瀬先生はふぉっふぉと穏やかに笑った。
律のすぐ隣に立つ良人は、何も言わずにただ静かに百瀬先生と律のやり取りを見守っている。
「まあ、立ち話もなんだ。そこのパイプ椅子にでも掛けなさい」
「あ、ありがとうございます!」
律は差し出されたパイプ椅子にさっと腰を下ろした。
良人はその椅子のすぐ脇に寄り添うように立ち、律に向かって静かに耳打ちする。
「律、先生に『青葉隼人選手のこと知ってるか』聞かないと」
「良人が聞けばいいのに……」
「やっぱりここは部長から聞いたほうが威厳が出るじゃない?」
「そ、そうかしら? こほん。では百瀬先生、実は5年前の青葉隼人選手のことについても聞きたくて。先生は当時のこと、何か覚えてらっしゃいますか?」
良人の助言をそのまま口にする律。
百瀬先生は、律のすぐ隣で良人が囁いたことにも、そこに良人が立っていることにも一切触れず、ごく自然に律だけを見つめて語り始めた。
「青葉くんか……覚えているとも。あのケガの後は痛々しくて見ておれんかったが、まさか今やプロとしてコートに立つとはな。だがな、中原さん。願いが叶うのには、いつだって相応の『対価』や『理由』が存在するものだよ」
「対価……?」
「うむ。何かを得るということは、何かを差し出すということ。5年前の奇跡にしても……陰で何か大きな力が働いていたのかもしれんね」
「へぇー、やっぱり何かあったんだ……!」
律は目を輝かせながら、隣の良人を見上げた。
「ねえ良人、やっぱり私の読み通りじゃない?」
「百瀬先生の言い方だと、やっぱり何か隠されてるっぽいな」
良人は顎に手を当てて何かを思考した後、律に優しく微笑み、「律の読み通りかもね」と返事をする。
百瀬先生は穏やかに資料を整えながら「他になにか聞きたいことはあるかね?」と問いかけた。
律はそのままインタビューを続けるのだった。
♢
古株の百瀬先生から「奇跡の対価」というキーワードを得た律たちは、続いてもう一人のターゲット——美術担当の五十嵐先生のもとへ向かった。
放課後の第一美術室。夕暮れ時の柔らかな光が差し込む室内に、油絵の具とキャンバスの独特な香りが漂っている。
イーゼルの前で筆を動かしていた若い男性教師——五十嵐先生は、扉の音に気づいて振り返ると、爽やかな笑顔を向けた。
「やあ、その色は1年生だね。美術室に何か用かな?」
「五十嵐先生、放課後にすみません! 実はオカルト研究会の調査で、先生にお聞きしたいことがあって」
「オカルト研究会? うちの学園にそんな部活あったっけ」
五十嵐先生は苦笑しながら筆を置き、パレットを近くの木製ワゴンに置いた。
律のすぐ隣に立つ良人は、絵の具の匂いに少し鼻をくすぐられそうになりながらも、静かに画架や周囲のデッサン像を見渡している。
「非公式なんですけど、赤音島に伝わる『夕陽の奇跡』について調べてるんです。先生、何かご存知ありませんか?」
「『夕陽の奇跡』か……。うん、僕もこの学園に赴任してすぐ、資料室の整理をしてる時に面白いものを見つけてね」
五十嵐先生は興奮気味に瞳を輝かせると、奥の棚から古い一冊のスケッチブックを取り出してきた。
「これなんだけどね。昔の生徒が描いたと思われる島のスケッチなんだ。夕暮れの海岸を描いたものなんだけど……ほら、ここ」
五十嵐先生がページを広げ、律に見せる。
そこには、朱色に染まる海と、海岸に並ぶ二人のシルエットが淡いタッチで描かれていた。
「この絵の裏に、メモが残されていてね。『奇跡を望む者は、自らの最も大切な刻を差し出す』って」
「大切な刻……対価のことかしら」
律が食い入るように絵を見つめていると、横から良人がそっと身を乗り出し、律の耳元で囁いた。
「律、あの5年前のバスケ部のアクシデント……青葉選手の事故が起きた時期と、このスケッチの日付を比べてみて」
「良人が自分で確認すればいいじゃない」
「僕が勝手に触ると先生に怒られちゃうかもしれないし、部長の指示でチェックした方がスマートだよ」
「もう、相変わらず慎重なんだから。……五十嵐先生、そのスケッチの日付っていつ頃のものですか?」
律が尋ねると、五十嵐先生は絵の端に書かれた日付を指さした。
「6年前の秋だね。青葉選手が大ケガをしたと言われている時期の、ちょうど直前くらいかな」
「直前……! やっぱり、奇跡が起きる前には何か前触れがあるんだわ!」
律はパンフレットのメモに急いで書き留めた。
その拍子に、律の肘が木製ワゴンに軽く当たり、上に置いてあったガラス製の絵の具瓶がカタカタと揺れて床へ落ちそうになる。
「あっ——」
五十嵐先生が手を伸ばしかけた瞬間。
カトン。
落ちるはずだった瓶は、なぜか吸い寄せられるようにワゴンの中央へと滑り、静かに収まった。
「おや……風かな。落ちなくてよかった」
五十嵐先生は何事もなかったかのように胸を撫で下ろした。
良人は少し青白い顔で小さく息を吐き、自分の手を制服のポケットにそっと忍ばせる。
「今の見た? 奇跡の力かも!」
「ただの偶然だよ。それより律、ノートに書くのに夢中でペン落としそうになってるよ」
良人は苦笑いを浮かべ、優しい声で応じた。
五十嵐先生は穏やかにスケッチブックのページを閉じるのだった。




