第1話
新緑の風が校舎の窓を吹き抜ける、入学してまもない春の放課後。
「良人! ついにこの時が来たわよ!」
誰もいない空き教室に、バァンッ! と勢いよく扉を叩き開ける音が響き渡った。
教卓の前で腕を組み、仁王立ちでドヤ顔を決めているのは中原律だ。
整った顔立ちに、海外で活躍するヴァイオリニストの両親譲りと思われる華やかな雰囲気。だが、その瞳は怪しい野望にギラギラと輝いていた。
「……また始まった」
自分の机で鞄を片付けていた谷村良人は、思わず頬をかきながら苦笑いを浮かべた。
小学校、中学校、そしてこの赤音島学園の高等部。
ずっと同じクラスで過ごしてきた腐れ縁であり、良人にとって律は幼馴染であり、そして——世界で一番大好きな女の子だ。
昔から律は、思い立ったら周囲を置き去りにして突っ走る癖がある。
だから良人にとっては、この光景もすっかり見慣れた「いつもの発作」のようなものだった。
「律……まだ入学して数日しか経ってないんだから、少しは静かに過ごそうよ。で、今度はなに? 『オカルト研究会』でも作る気?」
「なっ……!? なんで分かったのよ良人! エスパー!?」
「エスパーじゃなくて、君が手に持ってるその紙にデカデカと『オカルト研究会(非公式)』って書いてあるからだよ」
良人が呆れ顔で指さすと、律は「あ」と声を漏らし、慌ててルーズリーフを胸元に隠した。だがすぐに咳払いをひとつ挟むと、気を取り直したようにビシッと良人に人差し指を突きつける。
「細かいことはいいの! そうなのよ良人! 今日から私たちは『オカルト研究会』を結成するわ! もちろん部員第1号はあなたよ!」
「断る権限はなさそうだしね……。でもさ、なんでまた急にオカルトなわけ? 律、部活は入らないって言ってなかったっけ」
「ただのオカルトじゃないわ! この赤音島で語り継がれる『本物の奇跡』を解き明かすための研究会よ!」
律は興奮冷めやらぬ様子で良人の席まで詰め寄ると、ルーズリーフごと両手を机にドンッと突いた。顔が急接近し、ほんのりと甘いシャンプーの香りが鼻腔をくすぐる。良人はド心臓が跳ね上がるのを必死で押し殺した。
「奇跡……?」
「そうよ! 良人も噂くらい聞いたことあるでしょ? この赤音島には、古くから語り継がれている伝説があるの」
律は声をひそめ、どこか神秘的なトーンで語り始めた。
「——島の端にある絶景の海岸。空一面が燃えるような朱色に染まり、沈みゆく夕陽の中で『運命の二人』が口づけを交わすと、どんな願いでもひとつだけ叶う……っていう『夕陽の奇跡』の伝説を!」
「あぁ……うん、確かに有名だけどさ。それってよくある街のジンクスとか都市伝説の類じゃないの?」
「甘いわね、ワトソンくん! ただの都市伝説で片付けられない『紛れもない証拠』があるのよ!」
「ワトソンくん……」
律はバッと隠していたルーズリーフを机に広げようとした——その時だった。
手元が狂った律の肘が当たり、机の端にあった真新しい水筒がコロンと転がり、そのまま床へと落ちそうになる。
「あ、しまっ——」
律が慌てて手を伸ばしかけた瞬間。
カチャッ。
……なぜか、地面に落ちるはずだった水筒は、良人の手の中にすっぽりと収まっていた。
「……え? 良人、いつの間に拾ったの?」
律は目を丸くした。良人が座っていた席から水筒が落ちた場所まではそこそこ離れていたはずだ。
「え? あ、いや……反射的に手が動いたというか、運良くキャッチできたみたいでさ」
良人は少し引きつった笑みを浮かべ、何事もなかったかのように水筒を机に戻した。そして、どこか重そうに小さく息を吐きながら、自分の机に浅く腰掛け直す。
「……なんか、急にどっと疲れたな」
「ちょっと良人、水筒拾ったくらいで大げさねぇ。相変わらず体力ないんだから」
律は呆れ半分に笑うと、気を取り直してルーズリーフを机の上に広げた。そこにはビッシリと文字や写真の切り抜きが貼り付けられていた。
「話を戻すわよ! これを見て!」
律が指さしたのは、地元スポーツ紙の切り抜きだった。そこにはユニフォーム姿で爽やかに笑う、一人のプロバスケットボール選手の姿があった。
「これって……青葉隼人選手?」
「そう! 6年前、この赤音島高校のバスケ部でエースだった人物よ! 彼は当時、右足に壊滅的な大ケガを負って『二度とコートには立てない』って大人たちや医師から言われてたらしいの。……でもね、彼は奇跡的な完全復活を遂げて、今やプロリーグで大活躍してる!」
律は目を輝かせながら、熱弁を振るう。
「調査済みなのよ! 彼が怪我を克服して奇跡の復活を遂げたその背景には、まさにあの……この島で起きた『夕陽の奇跡』が関わっているに違いないわ! 偶然なんかじゃない、あの海岸には絶対に『物理法則を超えた何か』が存在するのよ!」
「いやいや……青葉選手が復帰できたのは、本人の必死のリハビリと努力のおかげなんじゃないかな……」
「ロマンがないわねぇ! だからこそ私たちが解き明かすのよ! 両親が海外でバイオリン弾いてる間に、私はこの赤音島の謎を全部暴いて見せるんだから!」
自信満々に胸を張る律。
海外で活躍する両親と離れ、学園の寮で一人暮らしをしている彼女は、寂しさを吹き飛ばすかのようにいつも何かに情熱を注いでいる。
そんな律のまっすぐな瞳を見つめていると、断ろうと思っていた気持ちなんて一瞬で吹き飛んでしまうのだ。
(……はぁ。やっぱり、律には勝てないな)
良人は少し青白い顔のまま、困ったように、けれど愛おしそうに眉を下げて笑った。
「分かったよ。お付き合いしますよ、部長さん」
「よっしゃー! そう来なくっちゃ! 頼りにしてるわよ、良人!」
満面の笑みを浮かべる律を見て、良人はそっと胸に手を当てながら、小さく息を整えるのだった。




