第13話
来る日曜日。
久しぶりに緊張感から解放されたせいか、弘は昼近くまでよだれで枕をべったり濡らしてぐっすりと眠っていた。
そんな弘を起こしたのは、ドタバタと廊下を駆けて部屋のドアを叩く母親だった。
「弘! 弘ってば、起きて! 早く起きてちょうだい!」
「……んあ? なんだよ……休みの日くらい寝かせろよ……」
かなり慌てた様子の母親に文字通り激しく殴り起こされ、弘は髪をボサボサにしたまま寝ぼけ顔で目を擦った。
「寝言言ってる場合じゃないわよ! 玄関のインターホン鳴ったから出てみたら……とんでもなくかわいい女の子が、あんたに会いに来たって立ってるのよ!? 彼女!? ねえ彼女なの!?」
「は……? 女の子……?」
頭がまったく回っていない弘は、寝巻き同然のTシャツとジャージ姿のまま、欠伸混じりにマンションの狭い廊下を通って玄関へと向かった。
扉を少し開け、ドアの隙間からチラリと外を確認する。そして外で待っている人物を見て、びっくりしてドアを勢いよく開けた。
「え……嘘」
マンションの玄関口に立っていたのは、ばっちりとおしゃれをした神代雪だった。
『大和撫子』という学園でのあだ名にふさわしい、清楚な白のワンピースに身を包み、ほんのり頬を染めながら照れくさそうに佇んでいる。
「…………え。神代……さん……?」
あまりの非日常的な光景に、まだ夢の中にいるのではないかと疑う弘が、素っ頓狂な声をあげた。
すると雪は、口元に手を当てて「ふふふ」と嬉しそうに微笑んだ。
「約束通り、迎えに来ました」
優しく響いたその言葉。
弘の脳裏に、金曜日の夜、画面越しに交わした一言が雷のように脳裏をよぎった。
『次の日曜日、会いませんか?』
『迎えに行きます』
「……え、じゃあ……雫……さん?」
ぽろりと口から漏れ出たその名前に、雪は小さく首を傾げ、眩しいほどの笑顔で答えた。
「はい。雫です」
「——っ!?!?」
大和撫子・神代雪とオンラインゲームの雫のアバターが重なり一致する。弘の脳内覚醒メーターが跳ね上がって眠気なんて一瞬で吹き飛んだ。
「ま、ちょっと上がって待ってて! 5分……いや、3分で着替えるから!!」
パニックになりながら奥の自室へ全力で駆け込んでいく弘の背中を、雪は楽しそうに見送るのだった。
♢
大慌てで普段着ないであろうおしゃれな服を引っ張り出し、髪を雑に整えて飛び出してきた弘と、そんな彼の姿をくすくすと嬉しそうに見つめる雪。
エレベーターを待っている間もドキドキして気が気じゃなかった。
そして二人はそのまま、手すらつながず、デートと言うにはどこか初々しさを感じる姿で、マンションを後にした。
休日の街並みを二人並んで歩く。手が触れそうで触れない距離を保ちながら、弘は何を話せばいいのやら。口から心臓が出そうだった。
いつもなら教室の横の座席から日本画の風景程度に眺めていた『大和撫子』が、清楚なワンピース姿で、目と鼻の先にいる。しかも、夜な夜な画面越しに軽口を叩き合っていた『雫』その人なのだ。
(いや待て……これ、マジで現実か……?)
前を向いて歩きつつも、隣の気配が気になって仕方がない弘は、どこかギクシャクした足取りになっていた。歩幅を合わせるたびにロボットのように足元がガシャガシャになる。
「ふふ、坂上君……ううん、『ロム君』。なんだかすごく緊張していませんか?」
「っ……いや、そりゃそうだろ! まさか『雫』が神代さんだったなんて思ってもみなかったし……っていうか、あの声とか喋り方、全然違ったじゃんか。てっきり会社員のおっさんかと思ってたよ」
「ボイスチェンジャーを使っていましたから。……だって、私だってバレたら恥ずかしかったですし」
雪は少し照れたように視線を泳がせ、それからいたずらっぽく小首をかしげてほほ笑む。
「でも、私だと分かって……嫌でしたか?」
「嫌なわけないじゃん! ただ、目が飛び出るくらいびっくりしただけで……」
咄嗟に振り返って答えた弘の顔に、雪の白く透き通るような肌と、ほんのり赤らんだ頬が間近に迫る。
思わず視線を泳がせる弘を見て、雪は小さく吹き出した。
ふたりでこじんまりとしたカフェに入って腰を落ち着かせる。どうやらこのお店は雪が以前から入ってみたいと思っていたカフェのようで、嬉しそうにメニューを見てはしゃいでいた。
雪がパタン、とメニューを閉じると弘が手元のスマートフォンでコードを読み込んで料理を注文する。弘はパンケーキと紅茶を、雪はクレープとアイスコーヒーだ。
「たのしみだね……」
「そうですね」
互いに向き合っての食事は初めてで、どこに目線をやっていいかわからない弘。
そこで雪がゲームの話を振ってくれる。
最初はどこかギクシャクしていた空気も、一度ゲームの話題やダンジョンの攻略法、お互いのドジなプレイの思い出に花が咲くと、いつもの『ロム』と『雫』のテンポを取り戻していった。
「あの時のボス戦、ロム君が敵のタゲを引き受けてくれたから勝てたんだよ」
「いやぁ、あの時は必死だったって。雫の回復のタイミングが完璧だったから耐えられたんだ」
「ふふ。やっぱり……ロム君と話していると、すごく落ち着きます」
コーヒーのグラスを包む雪の華奢な手が、ほんの少し震えていた。
楽しそうに微笑みながらも、彼女が弘を見つめる瞳には、これまでの苦しみや、助けてもらったことへの溢れんばかりの感情が込められている。
「ねえ、坂上君。少し歩きませんか? 行きたい場所があるんです」
カフェを出た二人が向かったのは、赤音島の端にある海辺。
島の中で最も美しく夕日が沈むと言われている、絶景の海岸だった。
ここで愛を誓ったふたりは、いつかどんな願いでも叶うという伝説がある。
それとなくその伝説を聞いたことのある弘は、その岬が近くなるにつれて、鼓動が早くなる。
「け、けしききれいだな」
「ふふふっ」
思わず声が裏返る弘に雪はほほ笑む。
水平線の向こうへ、燃えるような朱色の夕陽がゆっくりと沈みかけていく。空と海が溶け合うような美しいグラデーションが、二人を優しく包み込んでいた。
潮風が雪の黒髪と白のワンピースをふわりと揺らす。
「……ここから見る夕陽が、ずっと好きだったんです」
手すりに寄りかかりながら、雪がぽつりと呟いた。
「父に怒られて、学校でいじめられて、誰のことも信じられなくなって……自分が何のために生きてるのか分からなくなった時も、よくひとりでこの海を見ていました。……でも、あの日、暗闇の中から私を引っ張り出してくれたのは、坂上君でした」
雪はゆっくりと弘の方へ振り返った。
その瞳には、沈みゆく夕陽の光と、一筋の美しい涙が浮かんでいた。
「私のために頭を下げて……私の世界を救ってくれた。画面の向こうでも、現実でも……あなたは私のヒーローでした」
「神代さん……」
「『雫』として出会えてよかった。『坂上弘』という人に会えて……本当によかった」
まっすぐな言葉と、偽りのない純粋な想い。
弘はもう、自分の気持ちをごまかす言葉を持ち合わせていなかった。
ゲーマーの仮面も、過去の傷から作った諦めも、すべてが夕空の彼方へと溶けていく。
「俺の方こそ……キミを助けられてよかった。……雪」
名前を呼ばれ、雪の肩が小さく跳ねる。
「好きです。俺と――付き合ってください」
「――はい!」
真剣なまなざしの弘からの愛の告白。
雪は目にいっぱいの涙を溜めて、嬉しそうに返事する。
返事を受けて、弘は一歩を踏み出し、愛おしさを込めて雪の華奢な肩を引き寄せる。
雪も拒むことなく、愛おしそうに身を委ね、ゆっくりと瞳を閉じる。
ゆっくりと顔を近づけ、重なるふたりの唇。
燃えるような夕陽が島を茜色に染め上げる中で、ふたりの影がひとつに重なり合っていた。




