第3話
翌朝。
春の爽やかな日差しが差し込む3年B組の教室は、まだ登校してくる生徒もまばらで、静かな空気が満ちていた。
ガラリと教室の扉を開けた弘は、自分の席である窓際の一番後ろへと歩を進める。
カバンを机の横のフックに引っかけ、そのまま倒れ込むように椅子に深く腰掛けた。
まぶたが恐ろしく重い。
昨夜、雫がログアウトした後にソロで挑戦した素材集めが思っていた以上に難航し、気がつけば深夜過ぎまで画面にかじりついてしまっていたからだ。
目をこすりながら小さく息を吐いた、その時だった。
「坂上君、おはようございます」
すぐ隣の席から、鈴を転がすような透き通った声が聞こえてきた。
見上げると、そこにはすでに登校していた神代雪が立っていた。綺麗に整えられた黒髪に、隙のない綺麗な姿勢。相変わらず【なでしこ様】と呼ばれるにふさわしい、絵画のように可憐な佇まいだ。隣の席なのにわざわざ立ちあがって弘に朝のあいさつをしに来たのだ。
「あー……神代さん。おはよー……」
弘は頭の後ろを掻きながら、目をしょぼつかせて気のない返事をする。
「ふふ、なんだかすごく眠たそうですけど……もしかして、夜更かしでもされたんですか?」
雪はくすりと小さく笑うと、首を少しだけ傾げて尋ねてきた。
「いやー……ちょっとゲームがおもしろくてね……ふわぁ……っ」
言葉の途中で堪えきれなくなった弘は、大きなあくびを噛み殺そうとして失敗し、涙目になりながら大きく息を吐き出した。
「はは、ごめんごめん。家にいるとそのまま寝ちゃいそうで早く来たんだけど、全然ダメだわ」
「そうだったんですね。……ふふ、もし授業中に眠ってしまっていたら、私が起こしてあげますね」
「え、マジで? たすかるー。頼んだわ、神代さん。俺の単位は君の手にかかっている!」
弘はへらりと笑うと、そのまま机に肘をついて脱力した。
雪の澄んだ笑い声が聞こえてくる。
相変わらず学園のマドンナ相手とは思えないほどの緊張感のなさだったが、雪は嫌がる素振りも見せず、むしろ少しだけ嬉しそうに目元をほころばせ、自分の席にそっと腰を下ろしたのだった。
♢
その日の夜も、弘のルーティンは変わらなかった。
帰宅してすぐ制服から適当な服に着替え、パソコンの電源を入れる。集めた素材をアイテムに変えてスキルレベルをひたすら上げ続ける。そして夕飯を食べた後、ボイスチャットを立ち上げ、待ち合わせの時間きっかりになるとフレンドリストの『雫』の欄がオンラインへと切り替わった。
前回よりちょっと豪華な修道女の姿になったアバターと合流し、昨日とはまた別のダンジョンへと潜る。
道中の戦闘やギミックの解除も、二人の息はぴったりだった。弘が前衛で敵を引きつけて攻撃し、雫が絶妙なタイミングで回復と補助魔法を差し込む。ボイスチャットから聴こえてくるボイスチェンジャー越しの落ち着いた声と連携を取りながら、二人はスムーズに最奥のボスを撃破した。
「よし、クリア! いやー、やっぱり雫と組むとサクサク進んで助かるわー」
『ふふ、ロム君の指示が的確だからだよ』
ボスのドロップアイテムを山分けし、二人のアバターはダンジョンの出口付近へと戻ってきた。
いつもなら、ここで「じゃあ時間だから落ちるね」「おつかれー」とスムーズに解散の流れになるはずだった。
しかし、今日は違った。
画面の中の修道女のアバターが、その場でうろうろと小さく足踏みを繰り返している。ボイスチャットのスピーカーからも、かすかに吐息のような音が漏れ、何かを言いたげにもごもごとしているのが伝わってきた。
(……ん? なんだ?)
弘はヘッドセットのマイクの位置を調整しながら首を傾げた。
「どうした? ……あ、もしかしてもっと奥のエリアも行きたかった感じ?」
弘は勝手にそう解釈した。普段は時間が来るとすぐにログアウトしてしまう雫だが、今日のダンジョン攻略が楽しすぎて、もう少し遊びたいのではないかと考えたからだ。
「俺は全然いいぞ? もう一個先のダンジョンの開放クエストだけでもやっちゃうか?」
『え……? あ……ううん、ううん。違うの』
雫の声はどこか戸惑ったようにトーンが落ちていた。少しの間が空いたあと、小さな溜め息交じりの声がスピーカーから届く。
『……ううん、なんでもないよ。やっぱり、今日はもう落ちるね』
「え、あ、そう? 無理しなくていいけど……じゃあ、また明日な」
『うん……おやすみなさい、ロム君』
そのまま、スッと『雫』のステータスがログアウトに切り替わり、画面上のアバターが消えてフレンドリストが灰色に染まった。
(なんだあいつ……? なんか元気なかったような気がするけど……)
いつもと違う雫の雰囲気に、弘の胸の中に少しだけもやもやしたものが残った。普段なら言いたいことをサッと言ってサクッと落ちる奴なのに、今日のは明らかな不完全燃焼という感じだった。
とはいえ、ネカマ相手のプライベートに深入りしすぎるのも野暮というものだ。仕事か学校で何か嫌なことでもあったのかもしれない、と弘は自分に言い聞かせた。
「さてと……ソロでダンジョン潜るのは効率悪いしなー。……釣りでもするかあ」
翌日も学校があり、今から新しくパーティ募集するには時間が遅い。弘は一人で探索に行くのを諦めると、ゲーム内の街にある大きな港へとアバターを移動させた。
カバンから釣竿を取り出し、町の外にある海辺フィールドに腰を下ろして海へと糸を垂らす。
じっと浮きが沈むのを眺めながら、弘は淡々とスキル上げの釣りを始めるのだった。




