第1話
3年の始業式。
校歌の斉唱が終わると、新校舎の3階にある3年B組の教室は、独特のざわめきと気怠い空気に包まれていた。
3年生にもなれば、周囲の顔ぶれなんて見知った奴らばかりだ。新しい担任の長い挨拶、教科書の購入連絡、プリントの配布。どうせ初日なんてホームルームくらいしかないのだから、さっさと終わらせて解放してほしい——。
一番窓際の席に座る坂上弘は、退屈そうに口元を押さえてあくびを噛み殺していた。
頭の中にあるのは、昨日買ったばかりの新作のオンラインゲームのことだけだ。帰ったらすぐにパソコンの電源を入れて、昨日の続きをプレイしたくてたまらなかった。弘にとって学校とは、特筆すべきこともない平穏を消化する場所であり、部活にも入っていない自分には長居する理由などどこにもない。友人も、わざわざ面倒くさい回避不可のイベントが発生してしまう学校で作らなくとも、家に帰ってゲームをつければたくさんいる。
(早く終わんねえかな……。帰ったらあのダンジョン攻略しなきゃいけないのに)
退屈に耐えかねて小さく伸びをした、その時だった。
「坂上君、これからよろしくね」
鈴を転がすような、透き通った柔らかい声がすぐ隣から降ってきた。
ふと視線を横に向けると、隣の席の女子生徒が優しく微笑みながら、弘のことを見つめていた。
長く綺麗な黒髪。品行方正な佇まいと、どこか浮世離れした可憐な容姿。
女子生徒の名前は【神代雪】。
赤音島開発を主導した名家【神代家】の令嬢であり、吹奏楽部のエース。誰もが息を飲むようなその美貌から、男子たちからは半ば神格化され、「なでしこ様」と持て囃されている学園のマドンナだった。
周囲の男子生徒であれば、あの「なでしこ様」から直々に声をかけられただけで顔を赤くし、挙動不審になる場面だろう。
だが、弘の反応はあまりにも拍子抜けするものだった。
「あ、うん。よろしくー」
特別に緊張することもなく、かといって鼻の下を伸ばすでもなく、ごくごく普通のクラスメイトに対するそれと同じ気のない返事。弘は返事を済ませると、すぐに興味を失ったように椅子の前脚を浮かせ、ゆらゆらとロッキングチェアのように揺らし始めた。今は手元のスマートフォンで、先遣隊が調査したダンジョンのギミック情報を頭に入れることが一番大事だった。
窓から差し込む春の陽射しを浴びながら、天井を仰ぎ見る。
「こら、坂上! 初日から椅子をガチャガチャさせるな! 倒れて怪我するぞ!」
教壇から担任の怒声が飛んできた。
「すんませーん!」
弘は慌てて椅子の四本足を床に戻すと、頭の後ろに手を回してへらりと笑ってみせた。
「あいつ、始業式が始まって5分でもう怒られてんのかよー!」
「相変わらずだな坂上!」
教室のあちこちからどっと軽い笑いが起きる。
弘は何の特徴もない、どこにでもいる帰宅部の男子だ。運動も勉強も冴えない彼だが、ゲームにどっぷりハマる前はクラスのムードメーカーだった。その印象が残っているクラスメイトたちは彼のおちゃらけた部分を好意的にとらえてくれている。
ドタバタと賑やかしになる弘の横顔を、隣の雪はじっと見つめていた。
ふと視線を戻すと、雪と目が合う。
彼女はどこか嬉しそうな、けれど少しだけ切なげな、不思議な微笑みを浮かべて弘を見つめていた。
「なに? 俺の顔に何かついてる?」
「ううん、なんでもないよ。……これから、よろしくね。坂上君」
「ん、おう。よろしく」
雪は上品に揃えた膝の上で、そっと制服のポケットに手を滑り込ませた。
その瞬間、彼女の水晶の瞳の奥に、ほんの一瞬だけ暗い影が落ちたような気がした。
(……ん? なんか寒気でもすんのかな)
だが、弘は特に深く気にとめることもなく、再び手元のスマートフォンに視線を落とした。
春の風が吹き抜ける教室で、二人の三年生としての時間が、静かに動き始めていた——。




