第13話
前回、美羽と舞花が喧嘩した際には、美羽をリビングまでしか通さなかった。
けれど今回は、隼人は美羽をそのまま2階の自室へと招き入れた。
何やら勝手に勘違いした隼人の母親が、ニヤニヤしながらココアを持って部屋まで来たが、ココアだけ奪い取ると隼人は恥ずかしそうに「勝手に入ってくんな!」と追い返した。
二人分の温かいココアを机に置き、冷えた手を温めながら、小さな机を挟んで座る。
恋人同士というわけでもない。特別な甘い雰囲気があるわけでもない。ただ学校のことやリハビリのこと、趣味のこと。たわいのない雑談を静かに交わすだけの時間。けれど、引きこもっていた隼人の凍りついた心にとって、その穏やかな時間は何物にも代えがたい温もりだった。
ふと、会話の合間に沈黙が訪れる。
マグカップを置いた美羽が、意を決したように胸の前で手を握りしめ、隼人をまっすぐに見つめて口を開こうとした。あの日と同じ、真っ直ぐな想いを再び告げようとしているのだと、隼人は察した。
隼人はそっと手を伸ばし、美羽の薄い唇を優しく手で制した。
「……待ってくれ」
「……っ」
美羽が少し目を見開く。隼人は静かに手を離すと、彼女の瞳を逃げずに見つめ返した。
「必ず……お前の気持ちに応える。だから……だからもう少しだけ、待ってほしい」
今の自分はまだ、自分の足で立つこともできていない。舞花との過去を完全に払拭し、自分自身を取り戻した状態で美羽に向き合いたいという、隼人の誠実な決意だった。
美羽は一瞬ぽかんとした後、それ以上は何も言わずに嬉しそうに俯いた。
ポッと頬をほんのり赤く染めると、小さく頷く。
「……うん」
その小さく可憐な返事に、隼人の胸の奥がじんわりと熱くなった。
♢
それから、ふたりは付き合っているわけではないものの、一緒に過ごす時間が格段に増えていった。
リハビリの帰り道だけでなく、休日の午後も美羽が隼人の家に遊びに来ては、自室で一緒に勉強をしたり、静かに過ごす日が増えていった。
やがて、新学期——春がやってきた。
隼人はついに、進級することができなかった。
2年生の後半の授業をほとんど受けることができなかったため、もう一度2年生をやり直すという学校側の措置だった。ただし、真面目に出席していた前半の授業に関しては免除され、「出席しても、しなくてもどちらでもいい」という特例の提案が出された。
出なくてもいい、と言われた学校だったが、隼人は迷わず登校することを選んだ。
——美羽と一緒に通学し、同じ校舎で過ごすために。
新学期を迎える頃には、過酷なリハビリの甲斐あって、隼人は両手の松葉杖を手放し、一本の杖があれば自力で歩けるまでに回復していた。
穏やかにふたりの時間は流れ、そして——あの大怪我から、ちょうど一年が経った。
美羽の献身的なサポートと、隼人の血のにじむような努力の末、隼人はついに杖すらも使わずに、自分の足で力強く歩けるようになっていた。
その日、隼人は美羽をデートに誘った。
向かったのは、赤音島の端にある海辺。
島の中で最も美しく夕日が沈むと言われている、絶景の海岸だった。
どこまでも続く波音と、潮の香り。
茜色に染まる海原を背にして、隼人は隣を歩く美羽の方へ向き直った。一年間、どんな時も離れずに自分の隣に居続けてくれた少女。
「美羽」
「はい……?」
隼人は美羽の両手をしっかりと包み込むように握りしめた。
「一年間……ずっと俺の側にいてくれて、ありがとう。足が動かなくなって、全部失って絶望してた俺を……見捨てないで支えてくれたのは、お前だった」
「先輩……」
「待たせてごめんな。……俺は、君嶋美羽が好きだ。俺と、付き合ってください」
風がふたりの髪を揺らす。
一年前、自分の足で立つことすらできなかった男が、今、しっかりとした足取りで自分の想いを告げている。
「……っ……はい……! はい……っ!」
美羽の瞳から、ボロボロと溢れ出す大きな涙。
ずっとずっと待ち望んでいた言葉。美羽は涙で顔をくしゃくしゃにしながら、溢れる想いに耐えかねたように隼人の胸へと飛び込んだ。
隼人は力強く彼女の身体を抱きしめる。
美羽は顔を上げると、濡れた瞳で隼人を見つめ、そっと背伸びをした。
重ね合わされるふたりの唇。
波打ち際を優しく照らす夕陽の光が、ふたりを温かく包み込んでいく。
挫折と喪失の果てに辿り着いた、ふたりだけの穏やかな救済。
落ちていく茜色の陽光の中で、ふたりの影は、今度こそひとつに重なり合っていた——。




