怪終
朝日が、山の稜線から顔を出し始めていた。
昨夜まで闇に包まれていた廃病院が、薄い橙色の光に照らされている。
しかし。
そこに、新田慎二と磯山智美の姿はなかった。
あるのは、崩れかけた病院の建物。
そして、そのエントランスに転がる巨大な肉塊だった。
その周囲には、昨夜まで存在しなかったものがいくつも並んでいる。
軍用車両。
高輝度照明。
大型の計測装置。
薬品の入ったコンテナ。
そして、白い防護衣に身を包んだ数十人の作業員。
病院周辺は、まるで事故現場か、危険物処理施設のようになっていた。
上空からローター音が響く。
――バラバラバラバラ……。
一機の軍用ヘリが病院前の開けた場所へ降下してくる。
砂埃が舞い上がる。
ヘリが着陸すると、側面の扉が開いた。
中から一人の男が降りてくる。
三十代ほど。
黒いスーツ。
青いネクタイ。
そして、この異様な現場に似つかわしくないほど穏やかな表情。
防護衣を着た作業員の一人が駆け寄った。
「お疲れ様です」
「お疲れ様」
男は軽く手を上げた。
「状況は?」
「現地の霊能者からの報告を受け、対高濃度イビルマナ汚染装備を整えました」
作業員は携帯端末を確認する。
「現在の大気魔力係数は、マイナス2.3です」
「ほとんどダンジョンと同じレベルだね」
男は周囲を見回した。
「で、あれは?」
視線の先。
廃病院のエントランスに、巨大な肉塊が横たわっている。
数十分前。
磯山によって二つに断ち切られたはずの肉塊。
しかし今では、その断面から新しい肉が伸び始め、半分近くまで再生していた。
「この廃病院の怪異の元凶と見て間違いないと考えられます」
男は肉塊をじっと眺めた。
「マナレベルは?」
「1です」
「一般人か」
男は少し意外そうな顔をした。
「魔力係数は?」
「マイナス3.2です」
「典型的なマナ欠乏症の最終段階だね」
男は淡々と告げる。
「このままだと、いずれ破裂して周囲へイビルマナを撒き散らす可能性がある」
「はい」
「封蝕剤を投与して、研究所へ送ってくれる?」
「既に投与済みです。搬送手配も完了しています」
「そう」
男は満足そうに頷いた。
「じゃあ、あとはよろしく」
そして、廃病院を指差す。
「ちょっと中を見てくるから」
「承知しました」
男は軽く手を振りながら、病院のエントランスへ向かった。
その足元で。
肉塊が微かに蠢いた。
「と……も……ミ……」
男が足を止める。
「ん?」
肉塊から、途切れ途切れの声が聞こえる。
「せ……いど……れ……」
男はしゃがみ込んだ。
「まだ意識があるのか」
肉塊を観察する。
「すごいね、君」
まるで患者を励ます医師のような口調だった。
「安心してよ」
男は微笑む。
「有用なデータが取れるうちは、研究所で治療し続けるからさ」
そう言って立ち上がる。
肉塊を避けながら、何事もなかったかのように病院へ入っていった。
その背中を、一人の作業員が見つめていた。
「主任」
隣の作業員へ小声で尋ねる。
「あの人、防護衣を着なくていいんですか?」
「……」
「この濃度ですよ。イビルマナに汚染されたら、怪異化するんじゃ……」
「ああ」
作業員Bは淡々と答えた。
「あれはいいんだよ」
「え?」
「そもそも、人じゃないからね」
作業員Aが固まった。
「……まさか」
「ああ」
作業員Bは周囲を確認してから、さらに声を落とした。
「アンドロイドだ」
「……」
「しかも本社から派遣されている」
「本社って……」
「垓亜重工」
その名前を聞いた瞬間、作業員Aは口を閉じた。
「機密クラスAだ」
作業員Bは作業へ戻る。
「あまり詮索しないほうがいい」
「……はい」
作業員Aも、それ以上は何も聞かなかった。
* * *
廃病院。
地下隔離病棟。
そこには、凄惨な光景が広がっていた。
多数の手術台。
床に散乱する医療器具。
そして。
幾つもの遺体。
かつて人間だったもの。
怪異化した肉人形。
男は周囲を見回した。
「……通報してきた霊能者は?」
「こちらです」
作業員が指差す。
そこには、全身を焼かれた神宮寺霊幻の遺体があった。
「こりゃ、ひどいな」
男が近づく。
「酸……いや、正確には酸化性の強いイビルマナ反応か」
手袋を装着する。
「メモリが生きていればいいんだけど」
懐から刃物を取り出し、
霊能者の遺体の頭部に突き立てて肉を削ぎ落し始めた。
やがて、銀色の金属の骨格が現れた。
作業員が息を呑む。
「……え?」
男は手慣れた動作で内部を確認する。
そして。
「やっぱり」
透明な細長いチップを取り出した。
「メモリは無事だ」
男はポケットから黒いケーブルを取り出す。
その片方を自分の首元へ接続する。
スーツの襟に隠れていた場所。
そこには、人間には存在しない端子があった。
もう片方をメモリへ接続する。
――ピッ。
数秒。
男の瞳が一瞬だけ青く光った。
「……同期完了」
ケーブルを外す。
メモリを透明な袋へ入れ、ポケットへしまった。
「これは……」
男の表情が初めて変わった。
「どうされました?」
作業員が尋ねる。
「いや」
男はすぐにいつもの笑顔へ戻った。
「こちらの話だ。気にしないでくれ」
そして周囲を見回す。
「それより、今後のことだが」
「はい」
「生体サンプルと、この施設に残っている資料は全て回収」
「了解しました」
「その後、施設全体に祓蝕剤を散布して」
「承知しました」
男は少し間を置いた。
「それと」
「はい?」
「くれぐれも、アーガスノルン社から情報開示の要求があった場合でも、最低限のデータしか提供しないように」
「……分かりました」
「頼んだよ」
* * *
病院の外。
作業員たちが大型タンクを背負っている。
背中から伸びたホースの先には、シャワーノズル。
そこから、無色透明の液体が噴射されていた。
床。
壁。
廊下。
手術室。
そして、地下隔離病棟。
施設全体へ祓蝕剤が散布されていく。
男は、その光景を少し離れた場所から眺めていた。
やがてスマートフォンを取り出す。
「私だ」
短い沈黙。
「……ああ」
男の表情が変わる。
「生き人形を見つけた」
風が吹いた。
男の青いネクタイが揺れる。
「それも……恐らく、過去に一度怪異になっている」
もう一度、病院を振り返る。
朝日に照らされた廃病院。
男は目を細める。
「私の立場では判断できない」
そして。
「至急、管理者リブートプロトコルを実行してくれ」
電話を切った。
男はスマートフォンをポケットへしまう。
軍用ヘリへ向かって歩き出す。
その途中。
ふと、病院の方を振り返った。
「……磯山智美」
小さく名前を呟く。
しかし、その表情には感情らしいものはなかった。
男はヘリへ乗り込む。
ローターが回り始める。
――バラバラバラバラ……。
機体が浮上していく。
廃病院が、徐々に小さくなっていった。




