最後の旅へ
リアル多忙につき、投稿が滞っておりました。
今週から正常になると……いいな……
ニコラウスは大学の講堂で、押し寄せる避難民や傷病者たちの手当てに追われていた。
先ほどから市民や負傷した兵士を問わず、大勢の人間がなだれ込んできている。
悪神の眷属による攻撃は刻一刻と苛烈さを増しており、かつて静寂を極めた学術の府は、いまや避難民の不安と重症者の呻き声が渦巻き混沌と化していた。
議会の承認を得たアテン守備隊本隊の準備も、まもなく完了して前線へと向かうはずだ。
それまでは、市内に駐留していたわずかな部隊だけで、押しかける異形の群れを防ぎ止めねばならない。
「……間に合うと良いが」
ニコラウスの顔にも、隠しきれない焦燥の色がにじみ出ていた。
この破滅的な状況を終わらせることができる唯一の鍵。
【角笛】の浄化を、いま己の弟子が命がけで行っているのだ。
今はただ、彼の手による成功を信じて待つしかなかった。
「――教授!」
その時、混乱する講堂の入口から、今最も待ち望んでいた人物の声が響いた。
セルゲイだ。
「セルゲイ君! それで、角笛は!?」
ニコラウスは身を乗り出し、すがるような思いで結果を問い詰めた。
「こちらです。浄化は……成功しました!」
セルゲイが大事そうに掲げたその手には、どす黒い穢れが綺麗に削ぎ落とされ、古の精巧な意匠が美しく輝く神代の【角笛】が握られていた。
「よくやった……! 本当によくやったぞ!」
ニコラウスは破顔一笑し、弟子の偉業を心から称えた。
しかし、報告を終えたセルゲイの表情はなおも硬い。
「ですが、残された試練はまだ残っています。この角笛を最長老に届けねばなりません。……しかし、まさかここまでとは」
セルゲイの視線が、アテンの海へと向けられる。
かつて青く輝いていた海面は完全に黒い異形に覆い尽くされ、あらゆる生命を飲み込もうと波打っていた。
この凄惨な状況下で、再び「神の島」へ向かうなど、絶望的としか言いようがなかった。
「……ふむ。確かにのう、ワシの想像を遥かに超える惨事じゃ」
ニコラウスも苦々しい表情で惨状を見つめた後、覚悟を決めた眼差しでセルゲイに向き直った。
「さて……我が弟子よ。これがワシからの『最後の依頼』じゃ。急ぎアテンを離れ、かの漁村に向かうのじゃ。そこで巨人と合流し、神の島を目指せ」
「――承知いたしました。その依頼、謹んで引き受けさせていただきます」
二つ返事で依頼を了承するセルゲイを見て、老教授の口元が緩んだ。
「……ふふ、思えば、おぬしがこのアテンにやってきた最初の日にも、まったく同じやり取りをしたのう。あれから大して時間は経っておらんというのに、ずいぶん昔のことに感じるわい」
「確かに……その通りですね。こんなことなら、あの時依頼なんて引き受けなければよかった。教授からの依頼を受けるのは、これが最後ですよ」
セルゲイがどこか懐かしむように軽口を叩くと、ニコラウスは声を上げて可笑しそうに笑った。
(まったく、その通りだな……)
セルゲイは心の中で密かに呟いた。
巨人の調査を依頼されてからというもの、目まぐるしい出来事の連続だった。
どれ一つとして、自分一人の力では到底成し遂げられなかったことばかりだ。
そのたびに己の無力さを痛感し、打ちのめされそうになった。
だからこそ――仲間たちの力を借りてここまで繋いできたこの命がけの仕事を、自分自身の手で最後まで完遂しなければならない。
「……もしかすると、これが本当に最後の別れになるやもしれんな」
ひとしきり大笑いした後、老教授は急に真面目な顔になり、ポツリと呟いた。
「縁起でもない冗談はやめてください。そもそも教授は、なぜかいくら殺されても絶対に死なないような気がします」
「ハッハッハ! 確かに! 確かにその通りかもしれんの!」
老教授は豪快に笑い飛ばすと、力強く右手を突き出した。
「では、一時の別れとしよう! 大願の成就を心より祈っておるぞ、セルゲイ君!」
「はい!」
セルゲイはその手を強く、固く握り返した。
「それとな、あやつならすでに前線で暴れ回って時間を稼いでおるはずじゃ。あと暴れ馬の魔獣、好きに使うがよい!」
「感謝します!」
セルゲイは深く深く頷くと、二度と振り返ることなく大学を駆け出していった。
ニコラウスは、その頼もしく成長した背姿が見えなくなるまで、じっと愛弟子の後姿を見送っていた。




