穢れ払い
その頃、大学の薬学実験棟では、セルゲイとソフィア教授が【角笛】の浄化作業を始めていた。
かつてマリアの治療を行った時のように、まずはセルゲイの故郷の薬草を温められた湯に浸し、じっくりとその成分を抽出していく。
そして、ここからいよいよ『虹の花 アイリス』が投入される。
「この先はあたしがやる。人の身で軽々しく扱える代物じゃないからね」
ソフィアは愛おしそうにアイリスを見つめると、古代の言語と思われる不思議な呪文を低く呟き始めた。
すると、一輪の虹の花がふわりと宙に浮き上がり、神聖な七色の光を放ち始めた。
そのまま花は薬草の抽出液へと静かに落ちていく。
光の粒子が、ゆっくりと濁った薬液に溶け込んでいった。
「『賢者の釉薬』なんて呼ばれちゃいるがね……本来、これを作った『あの人』はいろんな道具を仕上げるために使っていたのさ。元々の名前は『聖水』と言うんだよ」
溶けゆく光を見つめながら、ソフィアがぽつりと呟く。
「神に捧げる供物を清め、神聖な気を宿らせるための真なる水さ」
ソフィアは薬液に向かって、さらに深く不思議な言葉を重ねていく。
「これを作れるのは、元々は『あの人』と『あの子』の二人だけ。あたしは二人の作業を側でずっと見ていたから、作り方を知っているだけに過ぎない。……ふん、やっぱりあたしが作ると、少しばかり精度が荒いねぇ」
ソフィアが苦笑いしながらそれを見る。
そこには花が完全に溶け切り、それまで白く濁っていた薬湯は、吸い込まれるような半透明の美しい液体へと姿を変えていた。
「さあ、完成だ。本物は完全に無色透明になるんだが……【穢れ】を祓う神の水。これが『賢者の釉薬』さ」
セルゲイは息を飲んで『賢者の釉薬』を凝視した。
匂いも気配もない。
事情を知らなければ、ただの透き通った水にしか見えないだろう。
「……さあ、本当の戦いはここからだよ」
ソフィアの表情が、一瞬にして険しいものへと変わる。
「これを扱うのは、本来なら『あの人』か『あの子』の役目だった。……だが今、その二人はここにはいない。【穢れ】とは呪いそのものだ。それを強引に祓おうとすれば、当然、呪いからの激しい抵抗を受けることになる」
「抵抗……ですか?」
「ああ。消滅を拒む呪いの意思さ。早い話が、自分を祓おうとする者に直接害をなしてくる。完全な『聖水』であれば抵抗すら許さずに浄化できるんだがね……」
「……完璧な聖水ではない。では、これは不完全なのですか!?」
セルゲイは青ざめた。
ここで角笛の浄化に失敗すれば、すべてが終わりを迎えてしまう。
「すまないねぇ……あたしの腕じゃ、不完全な聖水にするのが関の山だ。もっとも、効果自体に問題はないよ。ただ……解呪の際に生じる『呪いの反動』が跳ね上がるだけさ」
「……では、神の呪いの反動にどう立ち向かえば?」
セルゲイが恐れおののくと、ソフィアは不敵に胸を張った。
「だからこそ、あたしがここにいるんじゃないかい」
自信満々に宣言する賢者の姿に、セルゲイは息を呑んだ。
「さあ、つべこべ言わずに始めるよ! 角笛をこの釉薬の中へ静かに浸すんだ!」
促され、セルゲイは慎重に最長老から受け取った包みを解いた。
現れたのは、どす黒い穢れに汚染され、邪気を放つ角笛。
「……それが、例の角笛か」
どこか忌々しそうな、それでいて深い郷愁を含んだ瞳でソフィアがそれを見つめる。
「さあ……ゆっくりと、慎重に沈めな」
セルゲイは布で慎重に手を覆い、角笛を釉薬の中へと浸していった。
角笛の先端が液面に触れた、まさにその瞬間――
――ギィャアアアアアアアアアアアアアアッ!!!!
耳を直接叩き割るような、狂気帯びた大絶叫が実験棟全体に響き渡った。
男のようでもあり、女のようでもあり、激しい怒りと深い悲しみが混ざり合った異形の咆哮。
あまりの衝撃に、セルゲイの意識が急速に遠のきかける。
「気を強く持ちな!!」
ソフィアの一喝が飛び、セルゲイは必死で踏みとどまった。
大絶叫が渦巻く中、彼は震える手で角笛をさらに奥へと沈めていく。
すると、漆黒の汚れがじわじわと解けだし、釉薬の中へと溶け落ちていった。
黒い濁りが液中に拡散し、角笛の表面が徐々に本来の輝きを取り戻し始める。
あと少しで浄化が完了する――そう思われた、まさにその刹那。
ドロリと落ちた黒い穢れの塊が、意思を持った生き物のように跳ね上がり、セルゲイの顔面に向かって飛びかかってきた!
「退きな!!」
間一髪、ソフィアがセルゲイの前に割り込み、その黒い塊を腕で受け止めた。
「ソフィア教授!!」
ジュウウウウウッ……!という不気味な焼却音とともに、黒い穢れがソフィアの前腕にねっとりとへばりつく。
異様な腐敗臭が立ち込め、彼女の肉体を急速に溶かし始めていた。
「静かにおし! この程度の消え損ないなら、いくらでも対処できる……!」
ソフィアが呪文を呟くと、暴れていた穢れは一瞬で動きを止めた。
彼女はそのまま、それを器の釉薬へ放り込む。
しかし、ソフィアの腕は肘から先が真っ黒焦げに焼けただれていた。
「……フン、腐っても神の呪いか。この腕は、もう二度と使い物にはならないだろうねぇ」
激痛が走っているであろうにもかかわらず、ソフィアはまるで人事のように己の焼けた腕を興味深そうに観察している。
「申し訳ありません……! 私が油断したばかりに……!」
青ざめて深々と頭を下げるセルゲイに、ソフィアはフッと鼻を鳴らした。
「気にすることはないさ。……これもある意味、私らへの『罰』ってことなんだろうさね」
「……罰、ですか?」
「……それより、よく見な。浄化が終わるよ」
ソフィアに促されて器を見下ろすと、そこにはすべての黒い呪いが落ち、古の壮麗な装飾が美しく黄金色に輝く、神代の【角笛】が佇んでいた。
「これで……角笛としての機能は取り戻した。あとは、あの巨人どもに最後の調整をしてもらうだけさ」
「やはり……まだ工程が残っているのですね?」
「ああ。長い年月で汚染されたことで、神へ届ける【神言】が消え落ちてしまっている。奴らに、神を呼び出すための真なる言葉を刻み込んでもらわなきゃならない」
「ソフィア教授は……その言葉をご存じないのですか?」
「残念ながらね。神がどんな約束をその言葉に込めたのか、その本質を知る者でなければ刻む意味がないのさ。……さあ、もう一息だよ。今一度、あの巨人の下へ。あたしはここで、ニコ坊やペリクリスたちの時間稼ぎを手伝うとしよう」
セルゲイは深く頭を下げ、角笛を大事に抱えて部屋を飛び出していった。
一人残されたソフィアは、動かなくなった己の黒い腕を抱え、遠い目をしながら呟いた。
「……どうか、あいつを救ってやっておくれ」
セルゲイは角笛を抱きかかえ、最後の試練へと駆け出した。




