それぞれの戦い
今回は短めです。
セルゲイたちが村を発った後、残されたネルとアンサールは静まり返った浜辺から海を見つめていた。
視線の先では、絶え間なく不気味な波が立っている。
しかし、それは通常の波などではない。
よくよく見れば、頭部のない漆黒の異形の何かが、凄まじい速度で海面を駆け抜けてくる。
かつて穏やかだった海は、いまや黒い虫のような魔物の群れに覆い尽くされていた。
村人たちの避難はすでに完了している。
先日の航海を共にした船員たちも、それぞれ武器を手に取り、死を覚悟した面持ちで陣取っていた。
ヨルゴスも戦うと言い張ったが、足手まといになるのは目に見えていたため、アンサールがあらかじめ首筋を叩いて気絶させてある。
「おっさんたちも、危なくなったら無理すんじゃねえぞ。……あと、ねえちゃんも無理して前に出なくていいんだぜ?」
アンサールが軽口を叩きながら、自慢の愛刀を指先でくるりと回す。
ネルは静かに微笑みながらも、その瞳に鋭い戦意を宿らせた。
「お気遣いご無用ですわ。あなたこそ、その小さな身体であの異形を相手にするのは酷ではありませんこと?」
「へえ、言うねぇ」
アンサールは満足そうに口元を歪めた。
彼が村に到着するなり一時姿を消していたのは、この戦の匂いを敏感に察知していたからだ。
長く戦場にいたアンサールには、濃厚な死の香りを敏感に嗅ぎ取り、そしてこの瞬間のため、静かに精神を研ぎ澄ませていたのだ。
一方、ネルはその胸元に抱えていた大きな布袋を紐解いた。
島を発つ際、ストラトスが重そうに背負っていた袋だ。
ネルがその中から引き抜いたのは――人の身では到底扱うことのできない、極大の二本の長剣だった。
彼女はそれを左右の手で軽々と引き抜くと、しなやかに構えてみせる。
「あの時、なーんか違和感があったんだよな。それがねえちゃんの本当の『獲物』ってわけかい?」
アンサールがニヤニヤしながらその姿を見る。
「ええ。代々の『司祭長』に受け継がれてきた宝剣ですわ」
巨人の司祭長――それは、ネルたちのような巨人の末裔たちを束ねる頂点の存在を指す。
表向きの役目は、巨人たちの意思を汲み取り、その助力をすること。
そして、裏の役目は――神の島へ無礼にも侵入する愚者を、物理的に排除すること。
この二つの使命を果たすため、司祭長となる条件はただ一つ。
一族の中で「最強」であること。
ネルは永き歴史の中で唯一となる女性の司祭長であり、当代最強の戦士でもあった。
「じゃあ……気張って行ってみようか!」
アンサールが愛刀を構え直し、ネルと共に湧き出る神の呪いへと向かって跳躍した。
アテン市街を抜けたすぐの港に、ストラトスは立っていた。
古巣であるアテン守備隊の面々に混ざり、沖合の海を鋭い眼光で見つめる。
あの澄み渡っていた青い海は見る影もなく、遠くの水平線までが禍々しい黒で覆い尽くされていた。
生き残った守備隊から絶望的な知らせを受けたのは、ほんの半刻前のことだ。
南部諸島は壊滅。
かろうじて逃げ延びてきた民草は恐怖のあまり錯乱し、まともに会話すらできない状態だという。
ストラトスは、大学に残ったセルゲイの身を案じていたが、ニコラウス教授の弟子から「これより先、何としてでも時間を稼ぐ必要がある」との伝令を受けた。
そこで己が最も役に立てる場所――そう考えた時、ストラトスには行き先を迷う余地はなかった。
アテン守備隊は精強無比を誇る。
しかし、見知ったかつての同僚たちの顔にも、隠しきれない緊張と焦燥が浮かんでいた。
配属直後、自分に恐ろしいほどの猛訓練を課してきた鬼教官たちすらそんな表情をしているのを見て、ストラトスは少しだけ口元を緩めた。
ストラトスは、ネルから託された長槍を力強く構える。
末裔とはいえ、巨人族の規格で作られたその槍は、本来人間が扱えるサイズではない。
流石のストラトスも受け取った当初は面食らったが、今や己の手足のようにしっくりと馴染んでいた。
この槍があれば、いかなる化け物が相手だろうと遅れは取らない。
伝令によれば、アテン全軍の参集が完了するまでには、まだ相当の時間を要するという。
それまでに、この港を何としてでも死守する。
やるべきことは、これまでと何も変わらない。
ストラトスは深く息を吸い込み、呼吸を整えた。
この港でもまた、熾烈な防衛戦の火蓋が落とされようとしていた。




