花
準備を終えたソフィア教授と共に、セルゲイは離れを後にした。
外では、見張りを命じられていたニコラウス教授が、威厳のありそうな人物たちに詰め寄られて困惑していた。
「おおい……頼むからこの者たちをどうにかしておくれ……!」
「逃がさんぞニコラウス! 貴様もこの非常事態の対応に加わ……れ……」
怒声を上げていた人物が、ニコラウスの後ろから現れたセルゲイ、そしてソフィアの姿を認識した瞬間、まるで時間を止められたかのように絶句した。
「うげっ……ソ、ソフィア様……お久しぶりでございます。ほ、本日は一体どのようなご用件で……?」
「馬鹿なことを聞くんじゃないよ、ペリクリス。大学の薬学実験棟を借りるよ。今すぐ中の人間を全員叩き出しな。あたしが『良い』と言うまで、ネズミ一匹近づけるんじゃないよ!」
ソフィアがペリクリスと呼ばれた人物を容赦なく怒鳴りつける。
「お、恐れながら……現在は噴火による極めて深刻な緊急事態でして……その、実験棟で一体何をなさるおつもりで……?」
ペリクリスは冷や汗を流しながら、恐る恐る尋ねる。
「だから、あたしが直々に手を貸してやるって言ってんだよ! 相変わらず察しの悪い奴だね! ついでに中央議会の連中に伝えて、市内の兵を集めさせな! 大至急だ!」
そう言い捨てるなり、ソフィアはずんずんと歩き出した。
セルゲイとニコラウスは慌ててその後を追う。
「教授、先ほどの方は……?」
セルゲイがニコラウスにそっと耳打ちする。
「ああ…この大学の学長であるペリクリスじゃ。かわいそうに。昔ソフィア教授に大層いじめられ……ゴホン、可愛がられてな……」
(なんと……)
アテン大学の学長といえば、並の為政者や貴族よりも遥かに高い格を持つ人物だ。
それを顎で使い、怒鳴り散らすとは……。
「こそこそ喋ってないで早く歩きな! あ、ニコ坊! あんたはペリクリスを手伝ってやんな」
「な……!? な、なぜわしがそのような政治屋まがいの雑用を……!」
必死に反論を試みるニコラウス教授。しかし…
「うるさい! 口答えするんじゃないよ!」
一蹴され、ニコラウス教授は「悲痛」という言葉を絵に描いたような顔で学長の方へと戻っていった。
哀れな師である。
「まったく、最近の連中はいっちょ前に口だけは達者になりおってからに」
さすがに理不尽では?という言葉を喉の奥で飲み込み、セルゲイはソフィアの後に続いた。
「ソフィア教授、なぜ兵を集めさせるのですか?」
「あの島にいた奴らから話を聞いただろう?奴が目覚めかけてるなら、厄介な連中も一緒に出てくる。あれらを抑え込む必要がある」
忌々しそうに吐き捨てる教授。
「時間との勝負さ。【穢れ祓い】と、すべてが整うまでには時間がかかる。……あたしでなく、あの子ならすぐにできるんだけどね」
「【穢れ祓い】……? あの子とは、一体?」
今や飛ぶような速さで廊下を進むソフィアに問いかけたが、
「質問は後だ! 今は目の前のことに集中しな!」
疑問は問答無用で一蹴され、そのまま会話は終了した。
到着したのは、大学の一角に位置する薬学実験棟だった。
普段であれば、アテンの民のための薬品開発や実験が日夜行われ、不眠不休で研究者が蠢いている場所である。
しかし今は、学長の権限によって人っ子一人いない静寂に包まれていた。
「ふん、あいつもやればできるじゃないか」
教授は満足そうに頷くと、すぐさま実験室の器具を使って調合の準備を始めた。
「それにしても……あんたから『あの人』の薬が出てくるなんてね。運命ってのは本当に分からないものだよ」
「あの人の薬……?」
困惑するセルゲイに、ソフィア教授は手を動かしながら語りかける。
「あんたの持っているその薬草……不思議に思ったことはないかい?」
故郷の古老から授かった不思議な薬。
これまでずっと疑問を抱きつつも、深入りすることを避けていた核心だ。
セルゲイは無言で頷くしかなかった。
「それについて、あたしから多くを話すことはできない。……ただ、それは間違いなく神代の秘薬。今や地上から失われた、神の万能薬」
驚愕の事実に、セルゲイは思わず声を張り上げた。
「なぜ……!? なぜ教授がそれをご存じなのですか!?」
手を止め、振り返ったソフィアの表情からは、何の感情も読み取ることができない。
「それは……いや、すまないが、いつか、それをあんたに託した『男』に直接聞いておくれ。もし、あんたの運命が彼と再び交わる時が来れば、自ずとすべてが解るはずさ」
それがいつになるというのか。
問い詰めようとした瞬間、ソフィア教授が静かに制した。
「『賢者の釉薬』……これはね、あんたの持つその秘薬と、とある”花”を調合することで初めて完成する」
「……やはり、製法までご存じなのですね」
「賢人をなめるんじゃないよ。もっとも…それも【あの人】から教わった製法だけどね」
ソフィアは遠い目をする。
「『賢人の釉薬』とは、万物に宿る”穢れ”を祓い、あらゆる物質に神気を宿らせる」
「穢れを、祓う……」
「ああ、この地にあるものは何かしらの"穢れ"を持ってしまっている。そのままでは神に届かない」
【あの子】とは?【あの人】とは?
セルゲイは深く追求したい欲求に駆られたが、理性でそれを諫めた。
今はそれどころではない。
「……気になることばかりですが、まずはその『花』について教えていただけますか?」
「虹の花 アイリス」
ソフィア教授がぽつりと呟く。
「もう手に入ることのない花さ。遥か昔に、この地がまだ楽園と呼ばれていた時代の古い花」
そう言うと、彼女は外套のポケットから先ほどの木箱を取り出した。
彼女は懐かしそうにそれを眺めた後に、静かに蓋を開ける。
中には、まるでたった今摘み取られたかのような瑞々しさを保った一輪の白い花が、丁寧に納められていた。
「……あたしの友人が、昔くれたものさ。これを使う」
絶句するセルゲイ。
「二度と手に入らない貴重なものでは……!?
「……いいのさ。これが誰かの役に立つなら、あの子だってきっと喜ぶ。それに……このためにあたしに預けたんだろうからね」
そう言うソフィアはやはり寂しそうな表情をしている。
「釉薬の生成にはあたしも付き添うよ。失敗は一切許されないからね」
セルゲイは無言で、深く力強く頷いた。
「あんたとあたしで……この運命を変えてやろうじゃないか」
窓の外、アテンの空を赤く染めていた夕暮れが沈み、決戦の夜が訪れようとしていた。




