賢者
通された部屋は、程よい広さの研究室だった。
ただし、床という床に膨大な資料や古文書が散らばっている。
どうやら片付けが決定的に苦手な人物のようだ。
そう思いながら部屋を見渡していると「あんた、失礼なこと考えてないだろうね?」と鋭い眼光で睨まれたため、セルゲイは即座に思考を放棄した。
この賢者には思考まで読まれている気がする。
恐ろしい人物だ。
ソフィア教授は椅子の上に積まれていた資料を容赦なく床へ投げ捨て、二人分の席を作った。
「あたしはソフィアって言うんだ。ニコラウスから聞いてるだろ?」
ソフィア教授の尋問が始まる。
「はい、ニコラウス教授から、当大学の重鎮であると伺っております」
「あの小僧、余計なことを……。まあそうさ、あたしより古くからここにいる奴は、このアテンには一人もいない」
ソフィア教授がフンと鼻を鳴らす。
「……失礼ですが、お幾つになられるのでしょうか?」
セルゲイはつい、配慮に欠けた率直な疑問を口にしてしまった。
「女に年齢を聞くんじゃないよ!」
一喝。
しまった、と悟ったセルゲイはひたすらに頭を下げて謝罪した。
「申し訳ありません。正直に疑問に思ったことをそのまま口にしてしまいました」
「……ふん、正直な奴だね。まあ、調子の良いお世辞を並べて機嫌を取ろうとする奴よりは、数倍マシさ。ニコラウスなんかは、すぐそうやって機嫌を取ろうとする」
ソフィア教授は「昔はそんなんじゃなかったのにねぇ」と不満げに愚痴をこぼし始めた。
セルゲイは、このまま世間話を続けていては埒があかないと判断し、本題へと切り込むことにした。
「ソフィア教授。私にお会いになりたいとのことでしたが、一体どのようなご要件でしょうか?」
「単純な興味さ。あのニコラウスが弟子の話なんて滅多にしないからね。……まあ、今は別のことに興味が湧いたんだが」
ソフィア教授は、どこか愉快そうにセルゲイを見つめた。
「あんたから、匂いがしたんだよ。古い、懐かしい馴染みの匂いがね」
(匂い……?)
セルゲイはその言葉をどこかで聞いた気がした。
「あの木偶の坊どもが何やら騒がしいと思ったら、なるほど、これの匂いに反応したわけだ」
ソフィア教授は一人で何かに納得している。
「『木偶の坊』とおっしゃるのは、巨人のことでしょうか?」
「ああ、そうさ」
教授は即答した。
やはりこの人物は、この地の秘められた真実をすべて知っている。
セルゲイはその場に静かに膝をつき、真っ直ぐにソフィアを見上げて言い放った。
「ソフィア教授、お願いがございます。私は今、アテンの火山を鎮め、迫り来る破滅を回避するために動いております。どうか、あなたのお知恵とお力をお貸しいただきたい」
「嫌だね」
教授が愉快そうに答える。
「なんであたしが、あんたなんかに手を貸さなきゃいけないんだい? そもそも、よそ者のあんたが、なぜこの国のためにそこまで必死になる? ニコラウスのためかい? それとも助けた漁民のためかい? どいつもこいつも浅い関係じゃないか。命を賭けるほどの価値なんてないはずだ」
ソフィア教授は意地悪な笑みを浮かべ、セルゲイを試すように覗き込む。
しかし、セルゲイから返ってきた答えは、あまりにも単純で、そして迷いのないものだった。
「約束しましたので」
あまりにも即座の返答に、ソフィアはきょとんとした。
「……は?」
「この国に来た時に、ニコラウス教授と約束したのです。必ず巨人を見つけると。そしてあの漁村で思い出しました。私がこの研究の道に進んだ原点は、未知の生物の謎を解き明かしたいという純粋な探求心であったことを」
セルゲイはまっすぐにソフィアの瞳を見つめ返し、言葉を紡ぐ。
「私は、この国のために命を賭けるわけではありません。私は一人の学者として、知識の探究者としての情熱のために命を賭けるのです」
しばしの沈黙。
やがてソフィアは大きな溜め息を吐き出し、呆れたような、どこかわくわくしたような複雑な表情を浮かべた。
「……あんたも大概、大馬鹿者だねぇ。それで? そんな自分勝手な理由のために、大勢の人間を巻き込むつもりかい?」
「そうです。そしてもし失敗した時には、ニコラウス教授に責任を取ってもらいます」
セルゲイはきっぱりと笑顔で責任を教授に擦り付けた。
ソフィア教授は一瞬固まり、それから腹を抱えて大笑いし始めた。
「あっはっはっは!あんた、とんでもない奴だね!あいつも可哀そうに!」
「何を仰いますか。学者などというものは、元来、自己中心的で独りよがりな生き物でしょう?」
セルゲイも不敵に笑ってみせた。
「……フフ、違いないね。よろしい! あんたのその見上げた破天荒な探求心に免じて、この【知の賢人 ソフィア】が直々に手を貸してやろうじゃないか!」
ひとしきり笑い、ソフィア教授が高らかに宣言する。
その表情はどこか満足げで、そして何かの決意を感じさせるものだった。
「さて、少し準備するから待ってな」
そう言うと、彼女は部屋の奥へと引っ込んでしまった。
一人残されたセルゲイは、部屋の古めかしい調度品を眺めて時間を潰すことにした。
奥の部屋で、ソフィアは外出用の古びた外套を羽織り、厳重に鍵のかかった机の引き出しから小さな木箱を取り出した。
「……これも運命かね。あんたは、こうなることを知っていたのかい?」
誰にともなくぽつりと呟くと、彼女はその箱をそっと外套のポケットに滑り込ませた。




