最長老
一歩、また一歩と、暗い洞窟を進んでいく。
セルゲイには、もう何も見えない。
行先はもちろん、自身の足元さえも。
確かなのは、目の前にいると思われる、ストラトスの気配のみ。
この完全な暗闇の中で先頭に立ち続けることの、どれほどの勇気が必要なのだろうか。
案内役のネルも、この道には慣れてはいるのだろうが、その呼吸は荒い。
対照的に最後尾のアンサールのみ全く気配がない。
まるで、最初からいなかったかのように。
一行はひたすら一本道を下っていく。
ひたすらにひたすらに…
―――どれほどの時間が経ったであろう。
視界が完全に無いため、時間の感覚が狂い始めている。
数分だろうか?
数時間だろうか?
やがてセルゲイは、自分が生きているのか、それとも死んでいるのかさえ分からない、精神的な恐怖に襲われた。
なぜこんな事をしているのか?
なぜこんな場所にいるのか?
発狂し叫びそうになり、精神力でなんとか押さえつける。
一行はひたすら一本道を下っていく。
ひたすらにひたすらに…
―――永遠とも感じる果てしない時間。
セルゲイは、自分がもう死んでいると思い始めていた。
このまま意識を手放してしまえば楽になれるだろうか?
いっそ、この恐怖から救ってくれるなら、どうか自分を殺してくれとさえ思った。
それほどまでに、セルゲイの精神は限界を迎えていた。
前に進んでいるであろう、ストラトスの気配だけが、セルゲイの意識をこの世に繋ぎ止めていた。
一行はひたすら一本道を下っていく。
ひたすらにひたすらに…
―――もはや何も理解できない。
セルゲイは、自分が何をしているのかさえ分からなくなっていた。
歩いているのか、それとも止まっているのか。
生きているのか、死んでいるのか。
いよいよ本格的に発狂しかけたその時。
視界の奥に一筋の光が見えた。
セルゲイは駆けだしたい衝動に駆られながらも、自制心でなんとか押さえつけた。
今や巨人に会えるという興奮は微塵も残っていなかった。
気が狂いそうな、暗闇の恐怖から抜け出したい一心であった。
長い洞窟を抜け出した瞬間、セルゲイは崩れ落ちるようにしてその場に大の字に倒れこんだ。
もはや自らの足で立っている気力さえ残っていなかった。
先頭を進んでいたストラトスは仁王立ちであるが、異常なまでの汗をかいており、その消耗が窺える。
アンサールも同様である。
ネルも近くの壁にもたれかかりながら、息を整えている。
「…ネル殿。この道はもう二度と通りませんぞ…」
セルゲイは恨みがましい視線をネルに向ける。
「巨人の末裔の私でさえ、毎回この状態です。…人間の皆様にとっては、非常に困難な道のりでしょう」
ネルも青白い顔で力なく笑う。
「少し……ここで体制を整えましたら、先に進みましょう……」
「いやぁ、死ぬほど嫌な感じだったけど、まあ、いい経験だったかな~」
引きつった笑みのまま強がるアンサール。
凄まじい精神的負荷を受けながらも、すでに持ち直し、周囲を警戒するストラトス。
この二人はやはり人間離れしている。
これは鍛えたところで一生追いつけないなと思うセルゲイであった。
長めの休憩を取り、ようやく落ち着いてきたセルゲイは、上体を起こして周囲を見渡した。
単なる自然の洞窟だと思ってい場所は、よく見れば何かの建造物の中のようだった。
見上げれば、天井からは光が差し込んでいるが、その光の周囲の空間はゆらゆらと水のように揺らめいて見える。
そして広場の中央部分には、垂直に巨大な縦穴が開いており、その底の方にも並々と水が溜まっている。
そこからもまた、光が差している。
天井には何やら文様が描かれているが、何より驚愕したのはその周囲の壁画である。
あの日、嵐の海で遭遇した単眼の巨人が複数体、壁に埋まっている。
どの巨人も微動だにしない。
死んでいるのか、眠っているのか。
そして、その広場の最奥には、周辺の壁画の巨人に比べ、心なしか少し小柄に見える巨人とも思わしきものが、静かに横たわっていた。
セルゲイが周囲をまじまじと観察していると、ネルが何やら不思議な言葉を呟き始めた。
何事だろうと訝しがっていると、中央の縦穴から突如水しぶきが上がる。
驚く一行の前に何かがのそりと昇ってくる。
それはセルゲイ達を越え、そしてその全貌を現した。
あの嵐の日に遭遇した巨人だ。
人の家屋などを容易に踏みつぶせる様な、異常に巨大な体躯。
不気味なほどに深い青色の肌をしている。
そして、最も特徴的なのは、その巨大な一つ目だろうか。
現れた巨人は、その巨大な単眼をゆっくりと動かしてセルゲイたちを見下ろすと、地鳴りのような不思議な言語を発した。
「!”#$%&’()!”%#%&Y—」
何を言っているのか、セルゲイ達にはさっぱり分からない。
ただの風の唸る音にしか聞こえない。
しかし、ネルはその言語を完全に理解しているらしく、同じく不思議な言語で会話を始めた。
しばらくの間、巨大な怪物と小さな司祭長との間で奇妙な会話が交わされた後、ネルがこちらを振り返った。
「セルゲイ様。こちらの巨人から『あの日、投げ捨てて申し訳なかった』とのことですわ」
ネルが巨人の言葉を通訳した。
どうやら投げ捨てたことを気に病んでいたようである。
「……あ、いや、こちらこそ。あの海魔の襲撃から、我々の命を救い、ここまで運んでくれたことに、心から感謝していると伝えてください」
セルゲイはそう言い、ネルが伝えると、巨人は満足そうに、恐らく笑った。
「ネル殿。この方が巨人の最長老殿なのですか?」
「いいえ、違いますわ。この巨人は、太古の巨人の中でも最も年齢の若い巨人です。ほかの巨人たちは、もうすっかり年老いて地底で寝ているか、あるいは地上でいたずらに嵐を引き起こして遊んでいるか、どちらかですわ」
「巨人が年老いてとは?」
生物学者としてセルゲイは気になる疑問をネルへと投げかける。
「言葉の通りですわ。太古から生存する巨人も生物としての寿命には決して勝てません。かつて海を支配した巨人も、今では数えるほどしか生き残っていないのです」
ネルが壁画の巨人たちを見ながら答える。
「この空間は、巨人族にとっての聖域とされております。年老いた巨人が、その人生の終わりに大地に帰るための場所。ご覧の通り、この壁面に埋まっている巨人はすべて、終わりを受け入れ、静かに大地に帰ろうとしている巨人たちなのです」
ネルは少し寂しそうな、哀愁の表情を浮かべた。
「すでに巨人たちの神聖は失われつつあります。あと数世紀も経てば、雷雲の巨人たちはこの世から完全にいなくなるでしょう」
「”#!#”%”&$’#&$&4!!?」
切ない沈黙を破るように、青い肌の若い巨人が、再び最奥の暗がりを指差しながら何かを語りかけてきた。
「…そうですね、この話は後程にして。セルゲイ様、あの奥にいらっしゃるのが最長老。この世界に現存する最古の雷雲の巨人ですわ」
奥に横たわっている巨人がその最長老らしい。
確かに、よくよく観察してみれば、その体躯は目の前の巨人と比べて、一回りほど縮んでおり、その青い体には深い皴が刻まれている。
体色も灰色がかって薄い。
気の遠くなるような年月を生きてきたのであろう。
セルゲイが最長老を観察していると、突然、目の前の若い巨人が、最奥の最長老に向かって凄まじい大声で怒鳴り散らした。
「(’&%!#”$%#”!!!!」
空間が震えるほどの怒声、セルゲイが身構えると、ネルが笑いながら通訳を入れる。
「『おい、起きろジジイ! 客が来たぞ!』……と言っていますね」
どうやら最長老が起きないため、若い巨人が叩き起こしてくれているようだ。
いくらかやり取りを交わした末、最長老がのろのろと動き出す。
完全に覚醒するまで、もう少しかかりそうだ。
若い巨人が自分の役目は終わったと判断したのか、再び水の中に帰ろうとする。
だが、別れ際にセルゲイに向かって何かを語り掛けた。
ネルが不思議そうな表情をする。
「セルゲイ殿に対して伝言のようです。『なかなか奇妙な運命を持っているな、ここからが正念場だぞ』とのことです」
不思議そうに伝えてくるネルに、セルゲイはこれまでの道のりを思い返し、伝説の生物に奇妙な運命と言われるとはと、苦笑するしかなかった。
そして、とうとう最長老の準備が整った。
今こそ、すべての謎が明らかになる。
ほかの巨人と比べても幾分か小さく縮んだ最長老。
しかし、その一つ目は深い知性と、どこか哀愁を漂わせていた。
ネルがセルゲイの言葉を通訳する。
「最長老殿、初めてお目にかかる。私はセルゲイと申します。現在アテンを脅かそうとする火山噴火について、それを鎮めるための御力を、あるいはご助力をいただきたくまいりました」
少しの時間の後、最長老がゆっくりと口を開く。
「お前…懐かしい…におい…するな」
セルゲイでも理解できる現代の人間の言語を話した。
「最長老の知性は、遥か昔にこの地を訪れた人間たちの言葉……すなわち現代の言語の基礎にも深く精通しておられます。思考が追いつかない難しい箇所だけは、巨人語になってしまいますが……」
ネルがそう解説を加える。
最長老の目がセルゲイの懐へと向けられる。
「その…薬は、大事だ…なくすな」
「薬とはこれの事でしょうか?」
セルゲイが古老の薬草を見せると最長老が唸り声を上げる。
「それそれ…大事…に取っておけ。■■■■■■■■の物だ。もう、手に入らない?」
最長老の言葉の途中で、何らかの強烈な音波の乱れか、一部の単語が聞き取れなかった。
セルゲイは眉をひそめ、焦燥感を滲ませながら質問を重ねる。
「手に入らない?それは一体どういう意味でしょうか。この薬草は一体?」
セルゲイが疑問を口にすると、最長老が再び唸る。
「それ…は問題じゃない。それよりも…おまえが呼ぶ。棟梁。火山を止めろ」
セルゲイは、そのあまりにも唐突で重大な要求に、若干の戸惑いを隠せないまま、必死に食い下がった。
「棟梁ですか?それに、私が呼び寄せるとは具体的にどういうことでしょうか?」
「巨人は…吹けない。決まり。だからお前が吹け」
「火山は、貴方たち巨人の力では、直接鎮めることはできないというのですか!?」
「自分…たちは…棟梁の子分。自分たちが…火山を鎮める…ことはできない」
「では……貴方様が先ほどから仰っている、その『棟梁』とは、一体誰のことなのですか?」
「棟梁は…神だ。巨人族の神。彼が…俺たちに…いろいろ教えてくれた…真なる巨人だ」
セルゲイは息を呑んだ。
巨人伝説
その伝承は、どうやら完全に真実だったようだ。
火山を鎮める役割を持つのは【巨人の神】であり、彼らではない。
セルゲイは、最も重要な『呼び出しの道具』についての核心を問うた。
「伝承の通り、その巨人の神をこの世界に呼び寄せるための道具…【角笛】が存在するとお聞きしました。最長老殿、その神の角笛は、一体どこにあるのですか!?」
その質問が投げかけられた瞬間、最長老の一つ目に、深い憎悪と絶望が宿った。
「角笛は…かの『悪神の眷属』…によって穢された…もう使えない」
セルゲイはその話に愕然とする。
すでに破壊され使用できないなんて。
しかし、それよりも気になる不気味な発言が引っかかる。
「その『悪神の眷属』とは、一体何のことですか!?」
「あの火山…に封印された古き神…それが永きにわたる憎しみで…悪神となった。あれはもはや…神ではない。呪の類だ…その周囲を這いまわる…忌々しい眷属どもだ」
「その眷属とは…どのような姿形をしているのですか? 今も、この世界に存在しているのですか?」
「…黒い虫だ…脚がたくさん。あれは悪神の眷属だ。とにかく…生きているもの…に危害を加えないと気が済まない…汚らわしい…時折、這い出してきては…憎悪を振りまいてい…る」
セルゲイは恐怖に吐き気を覚える。
その話が事実なら、マリアから出てきたあの黒い虫。
あれは単なる自然現象ではなかったのだ。
それは堕ちた神の眷属。
アテンを襲っていたのは、神の呪い。
すでに火山よりも前から、神の呪いにより蝕まれていたのだ。
「…かつて…あの黒虫共が…島にきた。【角笛】を穢していった。油断した。虫は…すべて殺したが…仲間も大勢…死んだ」
最長老が憎々しげに語る。
黒虫によって巨人の多くが殺されたようだ。
「それは一体、いつ頃の出来事だったのですか?」
「ずっと…ずっと昔だ。あれら…は棟梁を恐れている。だから…邪魔する」
太古の昔に角笛は破壊されてしまったようだ。
打つ手なしかと思われたが、アンサールが最長老に問う。
「じいさん。あんた最初に棟梁を呼べと言ったな。しかし角笛は壊れちまってると言う。どうやって呼べばいいんだ?」
確かに、アンサールの指摘は極めて尤もだった。
最長老の言葉には、矛盾がある。
他の手段があるのか?
最長老は首を振りながら答える。
「【角笛】は…壊れてい…ない。穢れている…だけだ」
セルゲイは震えた。
まだ、終わっていない。
希望は繋がっている。
「…材料…を集めろ…あの人の…薬『賢者の釉薬』だ。それで…角笛を清めろ、終わったら…持ってこい」
(『賢者の釉薬』…?)
セルゲイは、その初めて耳にする謎の単語を脳内で反芻した。
「その『賢者の釉薬』とは、一体どのようなものなのですか? どのような材料で調合すればよいのですか?」
「お前の…■■■■■■■■の薬と…何かを混ぜてた。俺は知ら…ない」
またしても、肝心な部分の単語が、聞き取れない。
「調合の方法を…! では、現代のこの世界に、その『賢者の釉薬』の作り方を、あるいはその知識を知っている人物は、誰一人としていないのですか!?」
セルゲイが必死に叫ぶと、最長老は静かに呟いた。
「■■■■…あの人…なら知っていると…思う」
また聞き取れない単語だ。
「…いいか…人間、笛を…清めろ、これを持って…いけ」
最長老が懐から何かを取り出した。
古びた布にくるまれているそれを取り出し、セルゲイ達に見せる。
(これが…伝説の巨人を呼ぶ角笛か…!)
それは小さな角笛であった。
所々に豪華な装飾が施されていたようだが、全体的に黒く汚れている。
セルゲイが思わず素手で触れようとしたその時。
「触るな!!!」
最長老が、今日一番の、部屋全体が崩落しかねないほどの凄まじい大声でセルゲイの行動を制止した。
「……それに、触れてはならぬ! それを…覆う汚れ…は悪神の呪いだ! 人間触れば、その瞬間に死ぬ…清める…その時…まで、決して、布から外へ出すな…」
セルゲイは冷や汗を流しながら、慌てて伸ばした手を引っ込めた。
幾多の死線を越え、セルゲイはついに『穢れた角笛』を手に入れたのだった。
すべての真実、そして自らの使命のすべてを語り終えた瞬間。
最長老が突如として激しく、酷くせき込み始めた。
その巨大な一つ目の奥に浮かんでいたのは、先ほどまでの威厳ではなく…何かに激しく怯えた「恐怖」の色だった。
「いいか、これが最後の…機会だ。次は『あれ』が出てくる…」
老いた巨人は、歯が合わないほどに身体を震わせ、恐怖に怯えながら、最後に絞り出すようにして言い放った。
「『あれ』が、出てくれば……もう終わりだ。みんな、死ぬ…神も…巨人も…人間も。ワシは怖い…とても怖い…」
老いた巨人は怯えながら最後に言い放ち、また深い眠りについた。
残されたセルゲイ達は呆然とするしかなかった。
最長老の最後の言葉。
(あれが出てきてみんな死ぬ?)
巨人と火山をめぐる物語がいよいよ佳境を迎えようとしていた。




