帰還
セルゲイ達は地上へと戻る。
降りるときは気の遠くなるほど長く感じた洞窟も、帰りの足取りは非常に短く感じられた。
ネルが言うには、内界へと至る道には障壁のような特別な力が働いており、本来は地上の者を拒む性質があるのだとか。
セルゲイの頭からは、最長老が残した最後の言葉が離れずにいた。
『神も巨人も人もみんな死ぬ』
普通の噴火であれば、人が死ぬのは理解できる。
しかし、『神も巨人も』とはどういうことか?
(巨人も神も火に弱い? いや、そんなはずはない)
山が火を噴く程度で、不滅のはずの神が死ぬわけがないのだ。
(とすれば……神をも殺せる何かが、いや、何者かが?)
そこまで思考を巡らせた時、セルゲイは極めて単純で、それゆえに恐ろしい答えに辿り着いた。
罪の神が封印された山。
そして、その神の呪いによる悪影響の深刻化。
導き出される結論は、ただ一つ。
悪神の再誕。
セルゲイは最悪の事態を想像し、激しく身震いした。
(急がねば……間に合うといいが)
一人、破滅的な未来を予見したセルゲイは、焦燥感に駆られるようにして下山を急いだ。
日が傾きかけた頃、一行はようやく集落に辿り着いた。
過酷な登山、未知の領域である内界への移動、そして強行軍での下山。
セルゲイたちの肉体は極度の疲労に悲鳴を上げていた。
集落の入り口には、そわそわした様子でヨルゴスが待っていた。
「先生、お戻りでしたか!」
満面の笑みでヨルゴスに迎え入れられる。
「ヨルゴス殿。ご心配をおかけしました」
「それで? なにか分かったんですかい?」
期待に満ちた眼差しで詰め寄るヨルゴス。
セルゲイもすぐに情報を共有したかったが、まずは限界を迎えた身体が休息を求めていた。
「……申し訳ありませんが、少し疲れてしまって。少々休ませていただきたいのですが」
「でしたら、私の家においでなさい。他所に聞かれたくない、内密なお話もあるでしょうし」
ネルの気遣いを含んだ提案に、一同はありがたく賛同し、彼女の家へと案内された。
家の中には最低限の家具しかなく、司祭長としての暮らしぶりがうかがえた。
出された少し苦めのお茶を堪能し、ようやく一息ついたところで、セルゲイは今後の方向性を確認するべく口を開いた。
「角笛が穢されていると? それに悪神の眷属とな……」
マリアのことを思い出したのか、ヨルゴスの顔が怒りに歪む。
「ヨルゴス殿。『賢者の釉薬』について、何か聞き覚えはありませんか?」
「……申し訳ありませんが、全くですな」
ヨルゴスもその名については心当たりがないようだった。
「アテンには、釉薬を使う工芸品はあります」
意外にも、それまで沈黙を守っていたストラトスが答えた。
「鉄製の武具であったり、陶器の類であったりですが……『笛』に釉薬を使うというのは聞いたことが無いですね」
笛には使わないのか。
アテンに暮らす二人から有益な情報が得られず、セルゲイが再び頭を悩ませていると、ネルが意外な事を口にした。
「『賢者の釉薬』については、なんとなく想像が付きますわ」
ネルはそう言いながら、セルゲイの腰袋を指で指し示した。
「最長老が「懐かしい」とおっしゃっておりました。つまり、セルゲイ殿がお持ちのその薬こそ、賢者の釉薬なのではないでしょうか?」
セルゲイは古老の薬草を取り出す。
悪神の呪いをはねのける効能を持ち、角笛の素材とも縁がある薬。
(やはり、古老は神代の時代を知る者なのか……?)
「確かにその可能性は高いですな。ただ、最長老は『何かを混ぜていた』とも言っていた。どうやら、これ単体では完成しないようです」
セルゲイはそう言いながら、さらに頭を悩ませる。
(圧倒的に情報が足りないな。もう一度、最長老に面会するべきか……?)
セルゲイが深く考え込んでいると。
「他に物知りな人はいないのかい?」
アンサールが床に横になりながら、眠そうに呟いた。
物知りな人か。
その言葉に、セルゲイの脳裏に真っ先に浮かんだのはニコラウス教授の顔だった。
教授なら何か知っているかもしれない。
しかし、教授は今アテンにいる。
今から戻っていては、火山の異変に間に合わない可能性があった。
「先生。ここはあの時の老教授殿に頼ってみてはいかがか?」
ヨルゴスも同じことを考えていたのか、ニコラウスとの合流を提案してくる。
「ですが、教授はアテンにおられます。今から会いに行って、果たして間に合うかどうか……」
セルゲイは決断できずに迷う。
そんな彼の姿を見て、アンサールは少し呆れたように小さく笑った
「先生は焦りすぎなんだよ。東の国では「急がば回れ」って言ってな。焦ってる時ほど、慎重になるべきなんだぜ」
(急がば回れ、か……)
確かにな。
焦りのあまり、完全に視野狭窄に陥っていた。
ここで一人で悩んでいても、時間は無駄に過ぎていくばかりだ。
ニコラウス教授の知見と、大学の図書館に眠る膨大な古文書があれば、この難解な問いの答えが隠されているかもしれない。
セルゲイは一つ深呼吸をし、冷静な思考を取り戻す。
「……そうですね。一度ここで得られた情報を整理しに、アテンに戻る必要があるかもしれません」
一同もうなずく。
そして、ヨルゴスもうなずきながらも、どこか申し訳なさそうに身を縮めた。
「それが最善かもしれませんな。ですが……その、肝心の船が……」
(あっ……)
セルゲイは失念していた。
海魔に襲われ、岩礁に乗り上げた自分たちの船はボロボロで、とてもじゃないが再度の航行など不可能な状態だった。
セルゲイはゆっくりとネルに向き直る。
「……ネル殿。この島に、アテンまで渡れるような船はありませんか?もし可能であればお借りしたいのですが」
「申し訳ありませんが、この島には手漕ぎの小舟しかありませんわ」
「それで結構です!命がけで、なんとかこの情報をアテンに届けてみせます」
「お止めなさい。あの小舟では、遠洋に出た瞬間に海魔共に連れて行かれます」
ネルの冷徹な警告に、セルゲイは言葉を詰まらせた。
それもそうだ。
しかし、これでは完全に手詰まりだ。
一体どうやってアテンに帰ればいいのか。
「ご安心を。それについては、私に良い考えがありますわ」
ネルは優雅な仕草でお茶をすする。
「ネル殿。良い考えとは?」
海魔だらけの、荒れに荒れる海をどのように進むのか。
ネルは飲んでいた茶器を机に置くと、少し悪戯っぽく、意地悪そうな表情を浮かべた。
「やった本人に、責任を取ってもらいましょう」
翌朝。
セルゲイ達は帰還の準備を終え、入り江に集まっていた。
昨夜、ネルのあの意味深な発言の後「明日の朝、入り江でお待ちください」とだけ告げられて解散となったのだ。
ストラトスだけは何やらネルと居残って話し込んでおり、珍しく「遅れて戻る」と言い出していた。
(あの無骨者にも春が来たかな?)
そんなお花畑な妄想を膨らませていたセルゲイだったが、当の本人は拠点に戻った瞬間に、極度の疲労から泥のように深く眠り込んでしまっていた。
「皆さま、お待たせいたしました」
朝の澄んだ空気に、ネルの落ち着いた声が響き渡った。
彼女の後ろを歩くストラトスは、何やら巨大な荷物を背負い、疲れ果てた顔をしている。
「ネル殿、おはようございます。皆、準備は整いましたが……これからどうするのです?」
「骨は折れましたが、なんとか了解を得られましたわ」
ネルが勝ち誇ったように宣言し、懐から何かを取り出した。
「ネル殿、それは……?」
「角笛です。皆様、少し離れていてくださいね」
そう言うと、ネルは静かに角笛を唇に当てて吹き鳴らした。
その瞬間、地鳴の様な音がし、凄まじい水しぶきと共に、海から「何か」が姿を現した。
「……巨人!?」
思わずセルゲイが叫んだ。
あの嵐の日、セルゲイ達を救い、そして船を破壊した張本人。
ネルの提案とは、船を壊した巨人に、自分たちの船を運ばせるというものだった。
昨夜、ネルとストラトスが居残っていたのは、疲労困憊のセルゲイ達がついてこられないよう配慮したためだった。
ストラトスも限界に近かっただろうに、よく付き合ってくれたものだ。
寺院での巨人の説得は難航したという。
最初は人前に姿を晒すことに強い難色を示した巨人だったが、悪神の復活を阻止するためならばと、最後はその首を縦に振ってくれたのだ。
「この海は巨人の領域です。彼が護衛に就く限り、海魔とて、恐れて近寄ることはできません。さあ、参りましょう」
さも当然のことのように船へと歩き出すネルに、セルゲイは驚きを隠せない。
「ネル殿、あなたもアテンに来られるのですか?」
「私がいなければ、誰が巨人に進路を伝えるのです?」
ごもっともな反論だったが、島の司祭長ともあろう者が、そう易々と聖域を離れてよいものだろうか。セルゲイの懸念を察したのか、ネルは遠くへと視線を飛ばした。
その先には、ゲレス諸島がある。
「ええ……ですが、事は一刻を争います。このまま島で祈っているだけでは、守るべき未来そのものが無くなってしまう。司祭の役目とは、巨人の意向を聞き伝えること。そして巨人は、あなたに【役目】を託した。であれば、それを助け、その行く末を見届けるのも司祭としての私の役目でしょう?」
ネルの瞳には、揺るぎない確固たる意志が宿っていた
セルゲイは無言で深くうなずいた。
彼女もまた、自らの役割を全うしようとしている。
その覚悟を止める権利など、誰にもない。
セルゲイ達は、控えていたヨルゴス達に航海の準備を命じた。
船員たちも、最初は巨人の姿に腰を抜かしていたが、腹を括って出航の準備を始める。
「分かりました。では、この先のご案内もお願いできますか?」
「承知いたしました。司祭長ネル。これより巨人と人の懸け橋となりましょう」
優雅な一礼と共に、ネルは静かに宣言した。
一同が船に乗り込み、準備完了の合図を送ると、巨人はボロボロの船を慎重に、その巨大な背へと乗せ、滑るように進み出した。
「おお……っ!」
ヨルゴスが驚きの声を上げる。
海中を進む巨人の背に乗り、船は凄まじい速度で海面を滑走していく。
自分たちの船が自力で進むよりも、遥かに速い。
ネルの言葉通り、海魔たちは巨人を恐れてか、影すら見せなかった。
「海中は巨人たちの庭のようなものですわ、本来はもっと深い所を進むようですが、今回は船の状態と人を運んでいることを考慮し、このように海面近くを移動してくれているのです」
ネルが巨人を見下ろしながら、その移動方法を教えてくれた。
「これならば、人里に近づいても巨人の姿は目立ちませんな」
「太古の昔はこの海域を、何も気にすることなく闊歩していたようですが、巨人の神に従うようになってからは、海中移動を主とするようになったとか」
巨人たちをそれほどまでに厳しく律した理由とは、一体何なのだろうか。
巨人の神。
つくづく謎の多い存在だ。
セルゲイはまだ見ぬ超常の存在に、思いを馳せた。
甲板の別の場所では、ヨルゴス達が海に向かって静かに黙祷を捧げていた。
今回の海魔の襲撃により、十名が海の底へと引きずり込まれた。
「あ奴らはわしが……まあ、先生ならなんとなく察しておられたかもしれんが……海賊であった時からの、古い仲間でした」
(やはりか……)
セルゲイは薄々感づいていた。
この規模の船を動かす手際、そしてあの海魔との戦闘。
彼らは一介の漁師では到底身に付けられない、実戦の技能を持っていた。
「三十年程前、わしはこの辺り一帯を荒らし回る海賊の頭目でした。ある時、アテンの対岸の国の軍隊に散々に負けましてな。瀕死の重傷を負って、命からがら今の村に辿り着いたのです」
ヨルゴスは、遠い過去を慈しむように静かに語る。
「そこで、村人たちに手厚く看病されましてな。略奪を考えていたような悪党だというのに……」
ヨルゴスは自嘲気味に笑う。
「そこで初めて……人の優しさというものに触れました。そして、今まで奪う事しかしなかった自分が、初めて、人のために何かをしようと思ったのです。以来、あの村に留まり、近づく賊どもを懲らしめてきました」
ヨルゴスは遠くを見つめる。
「……ヤニスの母親であるマリーと出会ったのは、その時でした。死にかけのわしを真っ先に助けてくれたのが彼女でした」
セルゲイは何も言わず、ただ静かに先を促した。
「マリーは前村長の妹。つまり、今の村長にとっては叔母にあたる人物です」
ヤニスと村長の間には、そんな意外な繋がりがあるのか。
「今の村長は、子供の頃たいへんマリーに懐いておりましてな……。それ故に彼は、大好きな叔母を奪い去った元海賊のわしを、今でも憎んでおるのです」
ヨルゴスは天を仰いだ。
アテンの強烈な陽射しは、過去の罪びとも、今を生きる者も、すべてを平等に照らしている。
「間違いだらけの人生でした……本来なら、この場にわしはいないと思っておりました。また、仲間を差し置いて生き残ってしまいましたな」
力なく笑うヨルゴス。
その姿に、セルゲイが掛ける言葉は一つだった。
「あなたを待つ人が、今でもあの港にいるでしょう?」
ヨルゴスはしばし考え込むように天を見つめ、やがて「そうですな……」とぽつりと言った。
それきり、二人の間で会話は途切れた。
アテンの陽射しが、セルゲイ達を強烈に照らす。
この航海は、あまりにも得るものが多かったとセルゲイは思った。
そして、この先に待ち受けるであろう「最後の課題」について思考を巡らせながらも、彼はこの束の間の、静かな船旅を堪能した。
航海は極めて順調に進み、やがて遠目に、かつて出港した港が見えてきた。
沖合に船影が見えたからか、桟橋には多くの村人たちが集まってきている。
神の領域へと挑んだ勇者たちの帰還に、最初は歓声が上がっていた。
しかし、船の直下を泳ぐ巨大な影を目にした瞬間、歓声は一転して悲鳴へと変わった。
「おい、待ってくれ! こいつは悪い奴じゃねぇ! 船はボロボロだからこのまま浜に上陸するぞ!」
ヨルゴスが身を乗り出し、桟橋の村人たちに向けて声を張り上げる。
巨人は静かに船を浜辺へと引っ張り上げると、ネルと一言だけ視線を交わし、そのまま海へと消えていった。
「せんせー!おかえりなさーい!」
マリアの無邪気な声が聞こえてきた。
「まったく、たまげたぜ! 巨人に乗って帰ってくるとはな!」
ヤニスが呆れたように、しかし豪快に笑っている。
ヨルゴスは船を降りるなり、我が子を強く抱きしめた。
ヤニスは突然のことに、ただ戸惑っている。
周囲からは、割れんばかりの村人たちの歓声が響き渡る。
不可能と断じられた航海を見事に達成した勇者たちを、誰もが称えていた。
そして、その大歓声の人混みの中に、今、セルゲイが最も必要としている人物の姿があった。
セルゲイを見つめながら、穏やかに微笑むニコラウス教授の姿があった。




