【幕間】知識とは
セルゲイから書簡を受け取ったニコラウスは、ひとり夜の大学を歩いていた。
その足取りは異様に重い。
ニコラウスは、齢六十にもなるアテン大学の重鎮である。
これまで幾多の研究で功績を挙げ、名実ともにこの学会の権威と言える人物である。
そんな教授が心底苦手とし、願うなら会いたくない人間がいる。
その人物はこの広大な大学の奥のさらにその奥。
旧校舎と呼ばれる太古の建物に住み着いている。
もちろん寄り付く者は…ほとんどいない。
(…着いてしまったの…)
憂鬱な気分を内心愚痴る。
いかなる時も飄々と、そして思慮深く落ち着きを見せるニコラウスも、今回ばかりは、いたずらがばれた少年の様な、苦々しい表情をしていた。
ニコラウスは意を決して扉を叩く。
留守でいてくれという願いは、反応した声にかき消される。
大きく深呼吸し、中に入った。
部屋は適度な大きさであり、書物の棚が天井高くそびえたっている。
床面にはあたり一面、何かの資料が散らばっていた。
そして、その資料の山の奥に、この部屋の主がいた。
ソフィア教授。
このアテン大学最高齢の教授…とされている。
アテンの歴史をすべて記憶するといわれる女傑。
その存在は、アテン議会の面々すら、頭が上がらないほどだ。
そして、このアテン大学一の偏屈者である。
「ニコ坊じゃないか。えらく久しぶりだねぇ」
手に持つ本から一切視線を上げずに、来訪者を正確に当てる。
「ええ、お久しぶりですな。最後にお会いしたのは十年ほど前ですか」
ニコラウスが挨拶を返すと。
「お前が会いたくないだけだろう? つまらん挨拶はおよし。相変わらず礼儀のなってない小僧だ」
突然の罵声。
彼女はいつもそうである。
我儘で自尊心が高い。
気に入らないことがあれば、執拗に攻め立てる。
ニコラウスは波打つ心を落ち着かせて次の言葉を何とかひりだす。
「申し訳ありません。本日はお力添えをいただきたく参りました。教授にはこのアテンの巨人伝説とそれに関するとされる【巨人の神】と【角笛】についての知識をご教示いただきたく」
ソフィア教授の本を読む手が止まる。
「ほー、小僧のクセに面白い話をするもんだ。どこで聞いたその話?」
ソフィア教授が初めてこちらを振り向いた。
最高齢というが、この女性の年齢を知る者はいない。
恐ろしい事に、ニコラウスが学生の頃から一切変わらずにここにいる。
しかし、その顔は恐ろしいほどに若く美しい。
金色の髪をたなびかせる姿は、まさに絶世の美女と呼んでも過言ではない。
もちろん口を閉ざせばだが。
「アテン近郊の火山に噴火の予兆があり、その対応をしている中で巨人伝説にたどり着きました。【巨人の神】と【角笛】については、たまたま治療した漁民から」
ニコラウスは淡々と答える。
その話を聞いて、ソフィア教授は珍しく温和な表情をする。
「この話を伝える者がまだおるとは。人間も捨てたもんじゃないね」
ソフィア教授は立ち上がり、うず高く積まれた書物から何かを探す。
「お前が聞いたのは、過去の教訓の話だよ」
悪戦苦闘しながら、何かの書物を引っ張り出す。
「どれだけ先人が言葉を残そうとも、どれだけ痛みを伴おうとも、人間ってのはそれをすぐ忘れる。そして物事を自分の都合のいいように解釈する」
ソフィア教授は悪態をつきながら本をめくる。
「過去の教訓をまるで活かそうとしない、それを正確に伝えるものすら居なくなる。そして過ちを何度も繰り返す」
ニコラウスは黙ってそれを聞く。
「まあ、それは神も人も同じなんだがね。でもね、そんな中でも思いを伝え続ける者達もいる。…人ってのは複雑で、難しいもんだね」
ソフィア教授がこちらを向き、困ったような苦笑いを浮かべる。
「何をおっしゃっているのか、私にはわかりかねます」
戸惑いながら答えるニコラウスし、かっかっかとアレクサンドラは笑う。
「ニコラウスよ。今頃になって、何であたしにこの話を聞きに来たんだい?」
不意にソフィア教授から質問が飛ぶ。
ニコラウスは少し考えてから。
「聞けば最初から教えてくれましたかな?」
またも、愉快そうに笑いながら。
「小僧にしては言うようになったじゃないか。正解だよ」
「お前がただ知識を教えてくれと言ってきたら、すぐに叩き出しただろう。何もなそうとしないものは、何も得る資格はない。ましてや他人の力ですべてを解決しようとする奴なんか特にね」
一冊の本を手にニコラウスの前に立つ。
教授の視線は鋭い。
「教訓ってのもそうだが、自分で得て活かそうとしない限り、知識はただの自己満足になってしまう」
教授はまっすぐにニコラウスを見つめ、ある本を差し出す。
「この知識はお前が得ようとし、そして勝ち取ったものだ。存分に活かせよ? ある巨人の後悔と、その贖罪の物語をな」
ニコラウスはそれを手に取り中身を読み始めた。




