2−2
同じ週の木曜日のことだった。その日、ショートホームルームが始まるころになって、俺はようやく異変に気がついた。
稔也の姿が見当たらない。彼と同じクラスになってまだ短いけど、今まで遅刻も欠席もしたことがなかったので少し気になった。選択教科である美術の際、担当の先生が驚いていたぐらいだから稔也が学校を休む――と言っても、美術だけに限るのかもしれないが――というのは、かなり珍しい出来事だと推察できた。まあ、明日にはくるかなと思っていた帰りがけに、思いがけない連絡が入った。
『時間あるとき、ちょっと話せない?』
俺は何が起こったのかと携帯に表示された通知を二度見した。通知からアプリを起動して、改めて内容を確認する。
メッセージの送り主は稔也だ。自転車を一時的に藍葉さんの家に置かせてもらうにあたって、連絡先を交換していたけれど、それ以降使うことがあるなんて思ってもいなかった。
予想外の連絡に戸惑いつつ、帰宅した俺は自室の椅子に腰を下ろして電話をかける。十秒ほど発信のメロディが流れたあと、一拍の無言を置いて気怠そうな声が電話越しに聞こえてきた。
『麻薙? 電話ありがと』
覇気のない声だった。先日話したときとまるで違って驚いてしまう。よほど調子が悪いのだと察して、思わず聞き返す。
「大丈夫か?」
「あー……まあ、うん。ちょっと熱出てるだけー」
大丈夫と言わないあたり、それなりに堪えているのかもしれない。あんまり長話するもんじゃないなと思って、早めに切り出すことにした。
「それで、何の用?」
『麻薙に頼みたいことがあってさ。日曜日のフェス、俺の代わりに出てくれない?』
「……………………はい?」
言われていることが分からなくて、間の抜けた声が出てしまった。
日曜日のフェス。この間話していたハンドメイドの即売会だろう。それに出ろってどういうことだ?
予想の遥か斜め上をいく頼み事を耳にして、理解が追いつかない。しかし、稔也は戸惑う俺をよそに、さも当然と言った様子で話を続ける。
『前に話してたハンドメイドの即売会だよ。熱が出たって言ったら、遥己さんに今回は休めって言われちゃってさ。遥己さんは別に一人でもいいし、最悪出店見合わせても大丈夫って言ってるけど、迷惑かけたくなくてさ。ちょっと手伝ってもら――』
「ちょ、ちょっと待てって!」
俺の一声でようやく話が途切れた。十秒ほどたっぷり時間を取って、俺はようやく一つの疑問を口にすることができた。
「……俺、関係なくない?」
そもそも、自転車の一件があったから稔也と話すようになっただけだ。クラスメイト以上でも以下でもない関係で、少なくともこんな頼み事をされるような間柄ではないと思う。
『自転車直した仲だし』
再び遥か斜め上をいく返事が来た。こいつ、本当に熱が出て具合が悪いのかと疑いたくなる。
ただでさえ知らない世界に飛び込むのは労力がいるのに、まだ知り合って間もない大人と出かけろとかハードル高すぎだろ。悪態をつきたくなるが、それは胸に押しとどめて正論で攻める。
「いや、なんだよその理論。っていうか、自転車直してくれたのは藍葉さんだろ」
『ああ、あれ? 実は俺が直したんだよね』
「…………はい?」
再び理解が追いつかない情報が入ってきて、変な声が出てしまった。呆ける俺を置いていく勢いで稔也はつらつらと話し始めた。
『俺もちょっと前にチェーン外れて、遥己さんに教えてもらってさ。見たらおんなじ感じだったから直せそうだなあと思って直した。ああ、ちゃんと遥己さんに確認してもらってるから安心して』
言いたいことが多すぎて、もはやどこからツッコんでいいのか分からない。たっぷり時間を置いてから、俺はようやくひと言を絞り出した。
「……いや……。じゃあなんで藍葉さんが直したとか言ったんだよ」
『俺一人で直したわけじゃないし、俺より遥己さんに直してもらったって言ったほうが安心感あるじゃん』
「それはそう」
清々しい言い訳っぷりを前にして、正直な感想を口走ってしまった。
いっそのこと、事実をありのままに言ってもらった方がよかったんだけど、と悪態をつきたくなった。そうすればわざわざお礼に行くことも……と考え始めてやめた。稔也と藍葉さんに世話になったのは事実だ。さすがにそれは礼儀がなっていないと自省する。
つまり、俺は稔也に大きな借りがあるらしい。それを盾に取って今回の頼み事をしてきたのだとようやく理解が追いつく。いや、なんでそうなるんだよと苦情を言いたいが、きっと稔也の前ではそんなクレームなんて無意味だろう。
稔也は俺が想像していた以上にマイペースで自由気儘だった。日々こんな状態だったら学校で浮くどころの話ではない。現状を鑑みると、クラスでは周りに馴染めるよう彼なりに立ち回っているのだろう。
借りをそのままにしておくのもモヤモヤする。とはいえ、借りを返して有り余る頼み事だとも思う。このまま簡単に引き下がるのも癪なので、いちおう反撃してみることにした。
「他に頼める奴いるだろ? 部活のやつとか」
『美術部の二年の男子、今俺だけ。ついでに今のクラスにそこまで仲良い奴はいないー』
あっさり論破されてしまったうえに、先んじてクラスでの交友事情まで曝け出されてしまって、俺は二の句が継げなかった。呆気に取られているうちに、いつもよりトーンの低い声が聞こえてきた。
『……無茶なことを言ってるのは分かってるよ。でも、頼める奴、考えても思いつかなくて……』
その声が無性に心細そうに響いた。妙な焦燥感に駆られる。
周りの人に迷惑をかけたくないという稔也の気持ちは分からなくはない。けど、ハンドメイド界隈のことなんてこれっぽっちも知らない俺が手伝いに行ったとしても、足手まといになる未来しか想像できない。正直な感想が口から漏れる。
「つか、前も言ったけど、俺そういうのまったく分かんないんだけど……」
『遥己さんに言われたことやってくれれば大丈夫だし。そんな難しいことしないから。それに麻薙、美術取ってるじゃん。少なくとも、音楽とか書道よりは興味あるってことだろ?』
稔也の指摘がまさにその通りで俺は閉口する。音楽は美術以上に縁がなくて、クラシックもどこかで聞いたことがある曲をかろうじて知っているだけ。あまり自分の字が好きではなくて、書道は始めから選択肢外だった。唯一、すごく小さい頃に工芸系の教室に連れて行ってもらった記憶があるということから美術を選択したのだ。
こいつの観察眼と察しの良さを侮っていたと舌を巻く。俺は最後の抵抗として、めちゃくちゃ嫌味ったらしくため息をついた。
「……分かったよ。言っとくけど、必要最低限しかできないからな」
「……ありがと。細かいこと、また連絡する」
電話越しに安堵が滲む声が響いた。それを聞いて恩を着せるわけではなく、単純に助けを求めていたのではないかと思った。
電話を切ったあと、後悔とも言えない感情がふっと沸き上がってきた。なんでこんな無茶な頼み引き受けたんだろう。普段ならこんな無茶な頼み事なんか絶対に聞かないはずだ。しかし、返事をした手前、今更できないなんて言えない。
椅子に背を預けると、ぎしりと不服そうな音がどこからともなく聞こえてきた。




