第七話 芥見の現世の眼
芥見家の万里依と宇宙依が、夜に由良姫と宇羅彦の元へやってきた。
二人が学校へ行っている間に連絡があったのだろう。ちょうど晩ご飯が終わってひと息ついていたところだった。
「もう大学って休みなん? 早ない?」
「七月入ったらほぼ休みや、それよか今夜出かけられるか」
万里依に続いて、宇宙依がボソボソ呟く。
「今夜、隣の市で、ケガレが出る。ちょっと今までと違う。ヤバいかも」
万里依が顔色一つ変えずに、続けて言った。
「明日の日曜も、あんたらの高校でケガレが出る」
「マジ?」
「今夜のは事件になるかもしれへんで、気ぃしっかり持って行くで。うちと由良姫と宇羅彦で行くさかい、宇宙依はここで待っとき」
狐のケンがのそっと起きてきて、ケン! と鳴いた。
「ケンも行くんか?」
「そやな、確かケガレがわかるんやったな」
ケンは当たり前のように、由良姫と宇羅彦と一緒に車の後部座席に乗り込んだ。
「ほな、眴、二人借りてくで」
眴は心配そうに見送った。
「万里依がついとるさかい、大丈夫や」
宇宙依は明日、二人が通う高校で起きるだろうケガレの事件と、今夜起きる事件との関連を眴に説明した。
「それよか、二人が通うてる高校なんやけど、結構ヤバい。二人は、それ気づいてはるん?」
「はい。気づいてますが、ケガレになるまで下手に動かないよう言い聞かせてあります」
「そうか。こんな田舎でも、都会と変わらへんなあ」
「田舎な分、反対に世間が狭いというか。街へ出るにも、ちょっと時間かかりますし」
万里依と二人は、住宅街の近くを流れる川沿いに車を停めて待っていた。車から、ケガレが出る家は見えていた。
狐のケンが、寝ていたのにスッと身を起こした。
「そろそろかも」
「そやなあ。二階のベランダ越しの部屋やけど、屋根伝いで行って小窓の横の窓なら鍵開いてる。けど、あかん。部屋の前に人がいてる。じいさんが、部屋覗いてはるわ」
「鍵の開いてる窓は隣の部屋?」
「廊下はさんで隣、あの小窓が廊下の突き当たり。なんや、嫌な予感するわ。隣の部屋で様子見てて」
二人はケンと一緒に、ヒョイッと屋根に上ると、窓から中に入った。真っ暗な部屋は元は子供部屋のようだった。
ドアの向こうの様子に聞き耳を立てる。夫婦の声が聞こえてきたが、どうも様子がおかしかった。ケンがシャーッと毛を逆立て、鼻筋に皺を寄せる。
「しーっ、階段上がる音する」
すると、誰かが階段を上がりきったところで、廊下から男の野太い声でギエッと獣のような短い叫び声が上がった。
ギャッギャッギャッとような何を言っているかわからない、女にしては低めの怒鳴り声。続いて、ギャアッと短い女の叫び声とともに、何かが階段を落ちていく音が響いてきた。
宇羅彦がドアを開けると、真っ先にケガレとモドキの強い臭いがした。ギャッ、ギャッ!とケンの威嚇が止まらない。
「ケン、先に車へ戻れ!」
宇羅彦が窓を開けると、ケンは外へ飛び出していった。
二人は結界を張って廊下へ出ると、夫婦の寝室のドアへ近づいた。ドアの横、廊下の壁際に、年寄りの男が血を流し倒れている。
モドキがたかっているということは、まだ死んではいないのだろう。
「由良、足元、気ぃつけて。こっち来い、なりかけとる」
「ウーちゃん、階段の下、おばあさん倒れとる」
「放っておけ! こっちが先や」
寝室で、ケガレになりかけてる女の顔に二人は見覚えがあった。水泳部顧問の女性教師だった。
歳は三十代半ばくらい。小太りの夫らしき男にまたがった姿のまま、前屈みに背を丸め、強張っていた。
由良姫と宇羅彦の目前には、二つの体が一つになったものへ、たかり渦巻き波打つモドキの姿があった。
一息に気を喰らい尽くすモドキが皮膚の下で蠢くたび、二つの体は奇妙に動いていく。やがて目が落ち窪み頰がこけてきた女が、下敷きにしていた男に噛みつき始めた。
「どういうこと!?」
由良姫が悲鳴に近い声を漏らす。
女の肩が痩せて背中が骨ばっていく。その背には骨が突き出て膜のようなものがある。
振り返った女の顔は顎まで口が大きく開かれ、そこにはまるで魚類のような細かな尖った歯が生えていた。
その口には半ば黒くなって形のない、肉のような塊が咥えられていた。
「喰っとるんか!?」
女も、下敷きになっている男も、同じくらいモドキを出していた。けれど先にケガレへ傾いたのは、女の方だった。
共喰い。
そう呼ぶしかない形で、二つの体は融け合い、一つの大きなケガレへ変わろうとしていた。
由良姫と宇羅彦は容赦なく、機械的にケガレとモドキを祓っていった。
夫婦は多少の時間差はあれ、揃ってケガレになり一瞬で消し飛んでいった。モドキは階下で倒れている年寄りの女めがけて飛びついていった。
階下ではモドキが山のように群れていたが、そのうち体に入り込めなくなったのか由良姫たちの方へ向かってきた。
宇羅彦はそれを祓うと、由良姫に言った。
「行くで!」
「だって!」
「ケガレは祓った。あとは俺たちの仕事ちゃう」
宇羅彦は由良姫の背中を押して窓から出た。
「それに今夜は芥見のが車で待っとる」
それ以上に厄介なのは、大声や物音が響いて、誰かが通報しているかも知れないことだった。
「どないしたん、遅かったな。車出すで」
由良姫が口を手で押さえていた。
「なんや、気持ち悪いんか」
「まともに見たみたいや」
「ばあさんが包丁振り下ろしとるとこは見てへんやろ。突き飛ばされて落ちるとこか。見たんは血ぃ流しとるじいさんやろ?」
「なに、それ。全部、視えとるん?」
宇羅彦は感心して、万里依に聞いた。
「そうや、あんたらが何をどうしてはるか、全部視とる。危険がないかも、遠くまで全部」
今まで、ケガレとなっていく人を祓ったことはあっても、警察に関わるかも知れないような現場に出くわすことはなかった。
「眴に叱られるな、うちが一緒についていって、こんなんなってもうて」
「いや、なんやろ。ばあさん、なんでじいさん刺してもうたんやろ」
由良姫は後部座席で、窓を少し開けて深呼吸していた。
「由良、大丈夫か?」
由良姫は頷いた。だが息がうまくできなかった。
今まで、血を見たことがないわけじゃない。
祓いの場に立てば、体が崩れる瞬間も見てきた。
でもあれは祓いという処理だった。
今夜のそれは違う。
廊下に残った血は、消えない。
誰かが踏み、誰かが騒ぎ、サイレンが鳴る。明日の朝、ニュースになるかもしれない。
自分たちは、その現場にいた。
明かり取りの廊下の窓から月光が入っていた。
白い光の中に、血の跡が黒く浮いていた。水しぶきのようなものと、小さな水たまり。踏むわけにいかなかった。
高齢の男は、首の傷よりも、口の泡の方が目についた。その匂いが、鼻の奥に張りついて離れない。
今夜は、祓えば終わり、ではなかった。
世界は続いている。その続きの中に、自分が立っている。
それが、怖い。血の匂いよりも。
現実に触れていることが、怖かった。
一瞬、呑まれそうになったのが感触で残っている。
由良姫はそれがどうしようもなく気持ちが悪かった。
万里依は住宅街を離れ、国道沿いのコンビニまで車を走らせた。駐車場に車を止めると、宇羅彦に飲み物を買いに行かせた。
時刻は十一時を少し回っていた。
ケンが由良姫の匂いを嗅いでいる。宇羅彦が水を買って戻ってきた。万里依には甘いカフェオレを渡す。
「このまま帰ったら、眴に心配かけるだけや。どうするん?」
由良姫は返事をしなかった。宇羅彦が水のボトルを、由良姫の頰に当てる。
「あのなあ、今夜いきなり起きたわけやない」
万里依はカフェオレを一口飲んで、話を続けた。
「あの家な、ずっとおかしかってん。じいさんは、前からよう覗いとった。ばあさんもそれを見とった。嫁も、気ぃついとった」
「そう……」
「もうとっくに壊れとった。それが、今日やったのは、モドキのせいやろ」
「なんや、万里姉。もしかして毎日視とったんか。宇宙兄は、事件が起きること知っとるんか?」
「いや、そこまで見とらん。あの子は視えすぎる。全部視とったら頭おかしなる。うちがケガレだけ視るよう言うたんや。それでも、今日になってようやっと照準が合うた」
「そうやったんか。俺たちだけやのうて、万里姉も宇宙兄も、結構キツイんやな」
万里依は笑い飛ばした。
「視るんは、力を持って生まれた者の務めや。宇宙が視たことは、必ず起きる。うちは、起きとることを視る。視るだけや。物見も先見も、視えたからって、未来を触ったらあかん」
「ケガレも祓うだけ。いつも眴ちゃんから言われとる」
「そうか。眴も祓いに行かせたないんはようわかっとる。せやから、うちは一緒について回っとる。ケガレが出る。それを祓いに行かせる。どうしようもない。代わりに、祓いについて行って、危険がないか視る。それしかできん」
由良姫は万里依と宇羅彦のやり取りを聞いていて、自分が情けなくなってきた。この程度で揺れていては、この先足手まといになるだけだ。
「万里姉、もう大丈夫。帰ろう」
万里依はバックミラー越しでなく、振り向いて車内灯をつけ、しっかり由良姫の顔を見た。
「目ぇ見せてみい」
万里依はにっこり笑うと、前を向いてハンドルを握った。




