第六話 実習生滝川先生
由良姫のクラスには滝川という教育実習生が来た。
毎朝、朝礼や出欠確認もする。タッキーは案外とマメで昼休みも弁当持参で、教室で生徒たちと食べていた。理想的な実習生を演じきっている。
滝川人気は凄かった。早々に、生徒が作ってきた弁当は受取拒否宣言している。
観察していると、群がる女子を上手にJKという一括りであしらっているのがわかった。
「藤吉さんって、いつもお兄さん来ると教室からいなくなるじゃん。昼っていないよね。どこでお昼食べてるの」
タッキーがわざわざ聞きにきた。しかも何気なさを装うのがうまい。周りには容赦なく目も耳もある。
「部室です」
「さすがに夏は暑いっしょ。プレハブのことだよね」
「いえ、科学部なんで」
「理系女かあ。でも英語もできるよね」
「英語は必須でしょ、今時」
「頭いいんだな」
「先生、あっちで待ってるよ」
由良姫は目線を向けて、滝川に知らせた。「じゃあ」と言って、滝川は教室を出ていった。
由良姫が滝川と話している間に、宇羅彦は先に物理準備室へ来ていた。
由良姫も手ぶらでやってきて、冷蔵庫に入れておいた弁当をレンチンする。
「なんや、おまえ、誰連れてきてるん?」
「ええっ? なに?」
宇羅彦が指差す方を見ると、滝川が準備室の外で手を振っていた。
「先生、なに?」
由良姫がつっけんどんに対応すると、ちょっとホッとした滝川が準備室へ入ってきた。
「いいなあ、電子レンジ、借りていい?」
「職員室にもあるやん」
「職員室なんか、息つまるじゃん」
「先生、女子たちと食べるんやないん?」
「ちょっと、疲れた」
滝川はそう言って、空いているイスを勝手に引いた。
職員室には職員室の目がある。教室には教室の目がある。廊下を歩けば女子が寄ってくる。
物理準備室には、ツヤさんがいて、由良姫と宇羅彦がいる。隣室の特別講義室にも生徒の姿があるのを、滝川は確認していた。
外から見れば、実習生が生徒と二人きりになる場所ではない。そういう計算を、滝川はたぶん一瞬で済ませていた。
その言い草に、宇羅彦が笑った。
「由良はファザコンのマザコンやから、ちょっかい出すんムズイよ」
「へえ、弁当美味そうだもんな」
「お弁当は眴ちゃん作ってるから」
滝川は意味がわからず、思わず聞き返す。
「げ、げんちゃん?」
宇羅彦が弁当を食べながら答える。
「眴ちゃんは父親、兼母親、みたいな」
「眴ちゃんは、執事やん」
「執事!?」
由良姫はレンジから熱そうに弁当を持ってきてイスに座る。
「藤吉さんのうちは、この辺でも古くて大きいんだってね」
「知らん」
奥の方から、狐のケンが出てきた。どうやら隣の生物準備室にいたらしい。ケンは滝川の側へ寄ると臭いを嗅いだ。
「えっ? なに!? キツネ!?」
ケンは一度だけ鼻を鳴らし、興味を失ったように生物準備室へ戻った。その様子を見て、由良姫と宇羅彦は目を見合わせた。
「先生、意外とマジメやんなあ」
「意外とって、あのなあ、教育実習って結構大変なんだぞ」
「いつもどこでも、女子にたかられてるイメージしかない」
宇羅彦がボソッと呟いた。滝川は大笑いした。
「マザコンでファザコンで、執事がいて、おまけにシスコンの兄がいると」
「ウーちゃんは弟」
「へえ、そうなんだ。君、大きいよね、俺と目線同じくらい? ってことは百八十以上あるじゃん」
滝川は弁当を半分ほど食べると、冷蔵庫から麦茶を出し、勝手にコップに注いだ。
「部活は? やっぱ物理班?」
宇羅彦は頷いた。
「勿体無いよなあ、ラグビー部から勧誘されんかった?」
「ウーちゃん、ガタイいいから、あちこちから今も勧誘来るよ」
「俺、器械イジりの方が好きなんで」
「ふうん、その割に反射神経いいよね」
宇羅彦は滝川の視線を追っていた。思った以上に動体視力が良さそうだ。
宇羅彦の宿す、鬼の五感が先に警戒した。
「体育の高木先生、ラグビー部顧問だから挨拶行ったら、君の話が出たんだよ」
「ああ……」
宇羅彦は面倒臭そうに相槌を打った。
「先生はうちの学校、どう思いますか?」
滝川はすぐに答えなかった。
教育実習生という立場は、思っているより弱い。余計なことを言えば、どこで誰の耳に入るかわからない。評価票に何を書かれるかもわからない。
だから滝川は、言葉を選んだ。
「相変わらず、自由でユルいし、まあいいんじゃない? 三年なったら特待クラス入れば、国公立はまず問題ないだろうし」
「JKに囲まれて、どお?」
「どお? ってなに? 俺はそんなメンドーなもんに手ぇ出すほど困ってないし」
「そう言うけど、うちばっか当てるやん」
「だって君、頭いいし、後々質問来たりウザくないっしょ」
「ああ、ふーん、そういうこと」
「生徒なんか、誰がマジで相手するかよ。そんなことで将来棒に振るわけないじゃん」
「そっか」
「俺は実習終わったらさっさと帰るタイプだから。余計な噂、いらねぇし」
「そら、そうや」
「ていうか、おまえら自由すぎ。ガキはガキ同士で付き合えよ」
その言葉のあと、ほんの一瞬だけ、準備室の音が遠のいた。
アルコールランプの火は変わらない。
けれど、空気の密度だけが、わずかに増す。
宇羅彦が目を細める。由良姫は何も言わない。
ケンの耳が、ぴたりと止まった。
夏休み前の校舎は、ゆるむ。
鍵が長く開き、約束が増え、秘密が増える。
閉じた箱ほど、濁りは沈みやすい。
「……なんか、臭わん?」
由良姫が小さく言う。
「ここは大丈夫」
宇羅彦は短く答えた。
大丈夫。
今は。
学校は箱だ。
廊下を一本曲がるだけで、空気の質が変わる。笑い声の密度も、噂の速度も、欲望の温度も。
宇羅彦が、今を引っ張ってくる。
「滝川先生は、そういうゴタゴタ? 避けるのうまそうやな」
「そういうのって?」
「生徒とか、先生とか、OBとか」
宇羅彦が雑にまとめると、滝川は少しだけ嫌そうな顔をした。
たしかに、就活でも生々しいシガラミを無意識に避けているのは事実だった。
「避けるっていうか、面倒そうなとこには近づかんだけ。ここも実習終わったら関係なくなる。余計なもん背負いたくないしな」
弁当を食べ終わると、滝川はツヤさんから勧められたコーヒーを飲んでいた。ちゃっかりしている。
「まあ、実習生より、夏休みに帰省するOBとかに気をつけろよ。特に水泳部の瀬名な」
滝川は軽く言っただけだった。
だがその名は、どこか引っかかった。
夏は、匂いが強くなる。
滝川はわざわざ名前を出してきた。そこまで具体的な名前が出るということは、噂はすでに裏付けを持っているのだろう。
「あとは音楽部かなあ。あそこは合宿するから。夏休み中なんて、学祭の準備もあるし好き放題じゃん」
由良姫と宇羅彦は、眴から聞いていた芥見の件を思い出していた。
滝川の話から、夏休みは結構ヤバそうだった。夏休み早々、忙しくなりそうでウンザリする。
あちこちでモドキやらケガレが湧いてきそうな、暑苦しさだった。
だから、芥見本家が出てきたのだろう。
今度の日曜、由良姫と宇羅彦は部活で学校へ来ることになっていた。
その日、科学部以外に部活の申請を出していたのは、音楽部と水泳部だった。
その頃、県境のインター近くでは、別の約束が交わされていた。
大学も夏休みに入ったのだろう。帰省したOB瀬名の姿を、もう見かけたという噂は、すでに校内にも流れている。
水泳部顧問の女教師は、表向きは厳格で通っている。だが夜になると、校外で会う相手がいることを知る者は少ない。
瀬名は笑っていた。
女教師も笑っていた。
条件と引き換えの関係。
利害が一致しているうちは、誰も疑わない。
けれど。
彼女の周囲には、わずかに腐った魚のような臭いが漂っていた。
夏の湿気が、その匂いを閉じ込める。
瀬名は気づかない。
夏はまだ始まったばかりだった。
校舎のどこかで、まだ名を持たない濁りが、静かに目を開けていた。




