第五話 実習生樋口先生
教育実習生がやってきた。
一年に配属された二人は、ともに卒業生であった。
一組には担当教科音楽で樋口。音楽部OGで、華のあるタイプ。昔から「めぐみん」と呼ばれているらしい。
五組、由良姫のクラスには担当教科英語で、滝川。元ラグビー部主将の、やたら体格のいい実習生だった。
初日で呼び名が決まる。すでに女子からは「タッキー」と呼ばれていた。女子人気があると、呼び名も最速で決まる。
英語の授業が終わると、どのクラスでもタッキーの周りに女子が群がっていた。
笑い声、ガラケーの着メロ、プリ帳の話。放課後の寄り道は駅近くのバーガーショップか、モール内のドーナツショップ、国道沿いのファミレス。
塾へ行く前の一時間が、なんだか一番自由だった。
七月の夕方は長い。一斉下校の放送が流れても、空はまだ白く、昼の続きみたいに明るい。
けれど山の影だけは、ゆっくり校庭を呑み込んでいく。湿気を含んだ風が止まると、町は一瞬だけ息をひそめる。
由良姫はそういう輪の外にいる。
目鼻立ちは御子姫に似たキツめの美人。近寄りがたいわけではないが、視線が合うと相手が一瞬、正される感じがする。本人は気づいていない。
もちろん、タッキーも教室を見渡した瞬間、いちばん最初に目が止まったのは由良姫だった。
止まって、離れて、また戻る。視線というのは、気づく者には音みたいに聞こえる。
「……見とったな」
昼休み、物理準備室へ向かう廊下で、宇羅彦がボソッと言った。
「アイツ、おまえを見てたんちゃう?」
「アイツって? タッキー? かも知らん、よう当てられるもん」
由良姫はサラッと返した。興味がないというより、優先順位が違う。
由良姫は、御子姫に憧れていた。真似て髪を伸ばしている。暑い夏でも束ねたりしない。
宇羅彦は奏司に似ていた。ただ髪だけは御子姫に似てストレートサラサラだった。眴が奏司を思い出さないよう、髪を伸ばし束ねていた。
まあ、目立つ双子ではあった。
二人はツヤさんがいるのを確認し、ノックもせずいきなりドアを開けて入っていく。
準備室には学校のものとは思えないサイフォンが置かれていて、アルコールランプの火がいつも静かに青い。
「せんせっ! 今日もレンジ借りまーす!」
由良姫は冷蔵庫から弁当を出して温める。宇羅彦はイスに座り、狐のケンの首輪を軽く直した。ケンは最近、学校の空気が苦手だ。
特に音楽室の方角を向くと、鼻先が強く震える。何もないはずの空間を睨み、低く喉を鳴らすことがあった。
由良姫はそれを見て、何も言わない。
まだ、はっきりとは形になっていない。
ケンの耳だけが、遠くの音を拾っているようだった。
宇羅彦がゲンナリする。
「実習生来てから、ほんま騒がしいな」
ツヤさんが言う。
「田舎の学校に、新しい人が来ると、みんな一回確かめたがるからねえ」
確かめる。
それは噂にも似ている。
噂といえば、音楽室の方はもっと早かった。
樋口めぐみは、実習生として来る前から音楽部では知られていた。卒業してからも時々顔を出すOGで、後輩たちからはずっと「めぐみん」で通っている。
現役の時はソプラノのパートリーダーだった。そして、県芸の声楽科へ進んだ女子部員の憧れの的。
もちろん、佐藤先生が今でも目をかけているからこそ、教育実習に来ている。そのように、現役部員の目には映っていた。
それだけで、音楽部の女子たちには十分過ぎた。
樋口めぐみは女子部員に好かれるのはうまかった。近すぎず、遠すぎず、少しだけ特別な顔をして笑う。
佐藤先生の影があるからこそ、その笑顔には妙な箔がついていた。
しかも「佐藤先生の元カノらしい」などという、真偽不明でいちばん広まりやすい尾ひれも付いていた。
実際のところ、樋口めぐみが飛び抜けた才能を持っているのかどうか、由良姫にはどうでもいいことだった。
ただ、廊下ですれ違った時、この女は臭い、そう感じたことは間違いなかった。
佐藤先生は戻ってきていた。
一度倒れて、一度消えかけて、何事もなかったように復職する。学校というのは、そういう場所だ。記憶が、都合よく薄まる場所。
倒れた理由は曖昧なまま。
「過労らしいよ」「ストレスだって」
保護者の間では離婚の話も混じっていた。
それでも、職員室では誰も深く触れない。
金賞の盾は、校長室のいちばん目立つ場所に飾られたままだった。
そして音楽室は今日も、息を吸う場所だった。
音楽部の部活では、発声練習の前に筋トレをやる。V字バランスをしながらの発声練習、スクワットをしながらの呼吸訓練。その後一時間、練習で歌い続ける。ほぼ体育会系だった。
全員運動ができるよう着替える。女子は音楽室で、男子は準備室で。
練習が終わると、ゆっくり今日の練習の様子を話しながら着替えていた。七月ともなると、練習用のスウェットやTシャツは汗でグッショリだった。
めぐみが来ると、女子部員たちの声が少し高くなる。
先生ではないけれど、少し年上の先輩で、でもどこか生徒っぽくて。
その中途半端な近さが、かえって憧れになっていた。
めぐみは、女子部員の輪の中に自然に入っていく。
「三年生、コンクールまででしょう? 勉強、大丈夫?」
優しい声。
でもその優しさは、時々、逃げ道を狭くする。
「めぐみん、うちな、めぐみんと同じ大学受けるんやけど……このあと、ちょっとだけ見てもらえたりする?」
「美咲ちゃん、私と同じメッツォだったよね」
三年の安田美咲。
メッツォ──メゾソプラノ。
声がきれいで、まっすぐな、いい声質を持っていた。
周りの一年二年が「いいなー」と囁く。憧れを言葉にした瞬間、関係は上下を作る。
「うん、一斉下校まで大丈夫よ」
「わあ、嬉しい! ありがと、めぐみん」
三年の安田美咲はめぐみんに憧れていた。同じ芸大の声楽科を受験するつもりだ。
めぐみんは笑って頷く。
特別を配る時の顔だった。
レッスンはギリギリまで続いた。
美咲はひとり最後まで残っていた。
「遅くなったね。駅まで送ろうか」
たったそれだけの言葉なのに、美咲の目が少しだけ潤む。
──自分のために時間を使ってくれた。
それは、三年生にとってこれ以上ない、救いとほとんど同じだ。
車は川沿いへ回った。理由はない。
川面はまだ明るく、橋の影だけが濃く落ちている。窓を少し開けると、湿った草の匂いが流れ込んだ。
遠くで救急車の音が鳴り、すぐに途切れる。町は何事もない顔をしている。
理由がないことが、いちばん危うい。
「実習の間、まとめて個人レッスンの時間取ってあげる。日曜、空いてる?」
美咲は即答した。
即答してしまう自分が、少し怖いとも思った。けれどその怖さは、喜びにかき消される。
──選ばれた。自分は価値がある。
そう思える瞬間は、麻酔に似ている。
その頃、眴は電話口で沈黙していた。
芥見本家の主人直々の電話だった。しわがれた声が、用件だけを丁寧に並べていく。
万里依と宇宙依が早々に帰省してくるので、しばらく本家へ顔を出すこと。
長い休みを利用して、祓いに出られる者を増やしておきたいこと。
由良姫と宇羅彦の都合を、今後はもう少し詳しく知らせてほしいこと。
ひとつひとつは頼みごとの形をしている。 けれど、断れる余白はなかった。
芥見本家の声は、いつもそうだ。
低く押してくるのではない。笑って、丁寧に、こちらが頷くまで待っている。
待たれることが、一番重い。
眴は受話器を置いたあと、窓の外を見た。
夕方に向かう空はきれいだった。
きれいすぎて、怖い。
「……増えてる」
ぽつりと呟く。
常世の大河から漏れ出るものが。
市井に沈む濁りが。
そして、いちばん恐ろしいのは。
それがよりによって、学校に馴染み始めていることだった。
そこは、閉じた箱だ。
山に囲まれ、噂は巡り、結果は守られる。
濁りは、目立たない形で沈んでいく。
笑い声の下に、部活の掛け声の奥に、誰も気づかないまま。
まだ誰も、名前を知らない。
けれど確実に、増えている。




