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御子母の惑星─みこものほし─第二部 改訂版  作者: 宮生さん太
第一章 再来の初夏

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第五話 実習生樋口先生

 教育実習生がやってきた。

 一年に配属された二人は、ともに卒業生であった。


 一組には担当教科音楽で樋口。音楽部OGで、華のあるタイプ。昔から「めぐみん」と呼ばれているらしい。

 五組、由良姫のクラスには担当教科英語で、滝川。元ラグビー部主将の、やたら体格のいい実習生だった。


 初日で呼び名が決まる。すでに女子からは「タッキー」と呼ばれていた。女子人気があると、呼び名も最速で決まる。

 英語の授業が終わると、どのクラスでもタッキーの周りに女子が群がっていた。


 笑い声、ガラケーの着メロ、プリ帳の話。放課後の寄り道は駅近くのバーガーショップか、モール内のドーナツショップ、国道沿いのファミレス。

 塾へ行く前の一時間が、なんだか一番自由だった。


 七月の夕方は長い。一斉下校の放送が流れても、空はまだ白く、昼の続きみたいに明るい。

 けれど山の影だけは、ゆっくり校庭を呑み込んでいく。湿気を含んだ風が止まると、町は一瞬だけ息をひそめる。


 由良姫はそういう輪の外にいる。


 目鼻立ちは御子姫に似たキツめの美人。近寄りがたいわけではないが、視線が合うと相手が一瞬、正される感じがする。本人は気づいていない。


 もちろん、タッキーも教室を見渡した瞬間、いちばん最初に目が止まったのは由良姫だった。

 止まって、離れて、また戻る。視線というのは、気づく者には音みたいに聞こえる。


「……見とったな」


 昼休み、物理準備室へ向かう廊下で、宇羅彦がボソッと言った。


「アイツ、おまえを見てたんちゃう?」


「アイツって? タッキー? かも知らん、よう当てられるもん」


 由良姫はサラッと返した。興味がないというより、優先順位が違う。


 由良姫は、御子姫に憧れていた。真似て髪を伸ばしている。暑い夏でも束ねたりしない。

 宇羅彦は奏司に似ていた。ただ髪だけは御子姫に似てストレートサラサラだった。眴が奏司を思い出さないよう、髪を伸ばし束ねていた。

 まあ、目立つ双子ではあった。


 二人はツヤさんがいるのを確認し、ノックもせずいきなりドアを開けて入っていく。

 準備室には学校のものとは思えないサイフォンが置かれていて、アルコールランプの火がいつも静かに青い。


「せんせっ! 今日もレンジ借りまーす!」


 由良姫は冷蔵庫から弁当を出して温める。宇羅彦はイスに座り、狐のケンの首輪を軽く直した。ケンは最近、学校の空気が苦手だ。


 特に音楽室の方角を向くと、鼻先が強く震える。何もないはずの空間を睨み、低く喉を鳴らすことがあった。


 由良姫はそれを見て、何も言わない。

 まだ、はっきりとは形になっていない。


 ケンの耳だけが、遠くの音を拾っているようだった。

 宇羅彦がゲンナリする。


「実習生来てから、ほんま騒がしいな」


 ツヤさんが言う。


「田舎の学校に、新しい人が来ると、みんな一回確かめたがるからねえ」


 確かめる。

 それは噂にも似ている。


 噂といえば、音楽室の方はもっと早かった。


 樋口めぐみは、実習生として来る前から音楽部では知られていた。卒業してからも時々顔を出すOGで、後輩たちからはずっと「めぐみん」で通っている。


 現役の時はソプラノのパートリーダーだった。そして、県芸の声楽科へ進んだ女子部員の憧れの的。

 もちろん、佐藤先生が今でも目をかけているからこそ、教育実習に来ている。そのように、現役部員の目には映っていた。


 それだけで、音楽部の女子たちには十分過ぎた。


 樋口めぐみは女子部員に好かれるのはうまかった。近すぎず、遠すぎず、少しだけ特別な顔をして笑う。

 佐藤先生の影があるからこそ、その笑顔には妙な箔がついていた。


 しかも「佐藤先生の元カノらしい」などという、真偽不明でいちばん広まりやすい尾ひれも付いていた。


 実際のところ、樋口めぐみが飛び抜けた才能を持っているのかどうか、由良姫にはどうでもいいことだった。

 ただ、廊下ですれ違った時、この女は臭い、そう感じたことは間違いなかった。


 佐藤先生は戻ってきていた。


 一度倒れて、一度消えかけて、何事もなかったように復職する。学校というのは、そういう場所だ。記憶が、都合よく薄まる場所。


 倒れた理由は曖昧なまま。

「過労らしいよ」「ストレスだって」

 保護者の間では離婚の話も混じっていた。

 それでも、職員室では誰も深く触れない。

 金賞の盾は、校長室のいちばん目立つ場所に飾られたままだった。


 そして音楽室は今日も、息を吸う場所だった。


 音楽部の部活では、発声練習の前に筋トレをやる。V字バランスをしながらの発声練習、スクワットをしながらの呼吸訓練。その後一時間、練習で歌い続ける。ほぼ体育会系だった。


 全員運動ができるよう着替える。女子は音楽室で、男子は準備室で。

 練習が終わると、ゆっくり今日の練習の様子を話しながら着替えていた。七月ともなると、練習用のスウェットやTシャツは汗でグッショリだった。


 めぐみが来ると、女子部員たちの声が少し高くなる。

 先生ではないけれど、少し年上の先輩で、でもどこか生徒っぽくて。

 その中途半端な近さが、かえって憧れになっていた。


 めぐみは、女子部員の輪の中に自然に入っていく。


「三年生、コンクールまででしょう? 勉強、大丈夫?」


 優しい声。

 でもその優しさは、時々、逃げ道を狭くする。


「めぐみん、うちな、めぐみんと同じ大学受けるんやけど……このあと、ちょっとだけ見てもらえたりする?」


「美咲ちゃん、私と同じメッツォだったよね」


 三年の安田美咲。

 メッツォ──メゾソプラノ。

 声がきれいで、まっすぐな、いい声質を持っていた。


 周りの一年二年が「いいなー」と囁く。憧れを言葉にした瞬間、関係は上下を作る。


「うん、一斉下校まで大丈夫よ」


「わあ、嬉しい! ありがと、めぐみん」


 三年の安田美咲はめぐみんに憧れていた。同じ芸大の声楽科を受験するつもりだ。


 めぐみんは笑って頷く。

 特別を配る時の顔だった。


 レッスンはギリギリまで続いた。

 美咲はひとり最後まで残っていた。


「遅くなったね。駅まで送ろうか」


 たったそれだけの言葉なのに、美咲の目が少しだけ潤む。


 ──自分のために時間を使ってくれた。


 それは、三年生にとってこれ以上ない、救いとほとんど同じだ。


 車は川沿いへ回った。理由はない。


 川面はまだ明るく、橋の影だけが濃く落ちている。窓を少し開けると、湿った草の匂いが流れ込んだ。

 遠くで救急車の音が鳴り、すぐに途切れる。町は何事もない顔をしている。


 理由がないことが、いちばん危うい。


「実習の間、まとめて個人レッスンの時間取ってあげる。日曜、空いてる?」


 美咲は即答した。

 即答してしまう自分が、少し怖いとも思った。けれどその怖さは、喜びにかき消される。


 ──選ばれた。自分は価値がある。


 そう思える瞬間は、麻酔に似ている。


 その頃、眴は電話口で沈黙していた。

 芥見本家の主人直々の電話だった。しわがれた声が、用件だけを丁寧に並べていく。


 万里依と宇宙依が早々に帰省してくるので、しばらく本家へ顔を出すこと。

 長い休みを利用して、祓いに出られる者を増やしておきたいこと。

 由良姫と宇羅彦の都合を、今後はもう少し詳しく知らせてほしいこと。


 ひとつひとつは頼みごとの形をしている。 けれど、断れる余白はなかった。


 芥見本家の声は、いつもそうだ。

 低く押してくるのではない。笑って、丁寧に、こちらが頷くまで待っている。

 待たれることが、一番重い。


 眴は受話器を置いたあと、窓の外を見た。

 夕方に向かう空はきれいだった。

 きれいすぎて、怖い。


「……増えてる」


 ぽつりと呟く。

 常世の大河から漏れ出るものが。

 市井に沈む濁りが。


 そして、いちばん恐ろしいのは。


 それがよりによって、学校に馴染み始めていることだった。

 そこは、閉じた箱だ。

 山に囲まれ、噂は巡り、結果は守られる。

 濁りは、目立たない形で沈んでいく。

 笑い声の下に、部活の掛け声の奥に、誰も気づかないまま。


 まだ誰も、名前を知らない。

 けれど確実に、増えている。


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