第四話 音楽部OB篠さん
音楽部顧問の男性教師、佐藤の元へは卒業生もよく来ていた。
中でも篠原は、他校で音楽の講師をしていた。全国区で名の通った佐藤の元を訪れていたのは、部活の指導を頼まれたからだった。
昼過ぎ、五限目は空いているとのことで、少し早めに来たのだ。
そして、騒ぎに巻き込まれた。
篠原はやさしそうだが、どこか冷めた感じがした。何より、あの黒いものを見ても、すぐには騒がなかった。
「で、アレはなんだったの?」
「うーん、篠原さんはお化けって信じます?」
「篠さんでいいよ、みんなそう呼ぶから。お化けっていうか、そういう霊的な何かが存在するのは信じるよ」
「へえ、そうなんや」
あの日、由良姫と宇羅彦は、騒ぎの場から真っ先に退散し、早退した。それを助けてくれたのは篠原だった。
二人は早々に帰宅して禊をし、眴に頼んで視てもらった。ケガレもモドキももらってはいなかった。
ホッと一安心したのも束の間、眴にあれこれ聞かれた挙句、懇々と説教されていた。
「田舎っていうのは、噂が広まるのも早いですから、気をつけないと」
奇妙なことに、ケガレに関係することは大概、人の記憶に残らないらしい。あの音楽準備室でのことも、なかったことになっていた。
しかし、由良姫と宇羅彦にとっては違う。
すべて、生々しい記憶として蓄積されていく。
二人は幼い頃から敏感だった。
「いいですね、なるべく祓った時のことは忘れて下さい」
「わかってる」
「うん、眴ちゃん。そうなった方が悪いんやし」
「そういう話ではありません。ケガレを祓い続けるということは、祓った時に見たものを、自分の中に溜めていくのと同じなんです。忘れて下さい」
由良姫と宇羅彦には、忘れられないケガレを祓った記憶があった。
だからこそ、ケガレ祓いによって自分自身が傷つくことは、かえってケガレの思うツボであることもわかっていた。
「深く関わらない、忘れることです」
だから最初、篠原ともあまりケガレやモドキについて話をしたくなかった。
由良姫と宇羅彦は、まだ十六歳だった。
感受性豊かな時期に、人を生きながら蝕みケガレと化したものを、繰り返し祓っている。
眴は、本当ならそんなことをさせたくはなかった。
「とにかく、助けようなんて思わないで下さい。ケガレになってしまうものを、それ以上影響が出ないよう祓うだけです」
常世の大河の穢を祓うのとはわけが違うのだ。
元は人であったろうものが、ケガレにまでなってしまうまでには多くのことがある。
いちいち、どうして、なぜ、もっと早くに救えなかったのか、などと考えること自体、無意味なのだから。
由良姫と宇羅彦が今、音楽部OBの篠原と交流を持っているのは、大量のモドキに巣喰われていた、あの男性教師、佐藤が復帰してくるという話を聞いたからだった。
それまでの間、篠原は音楽部の指導に度々来ていた。
篠原はわざわざ、二人が入り浸っている物理準備室へ足を運んだ。
「このケンちゃんって、狐じゃないでしょ、中身人間じゃない?」
確かに、ケンには不思議なところがいくつもあった。
「篠さんも、やっぱそう思うんやあ」
「まあね。狐っていうよりも、なんていうかさ。人間が狐のふりしてるっていうか、狐が人間のふりしてるっていうか」
「どっちなん、それ」
「そこがわかんないから面白いんじゃない」
そう言うと、篠原は笑った。
笑い方は爽やかなのに、目の奥だけは少しも笑っていなかった。
ケンは篠原をジッと見上げていた。鳴いたり唸ったりはしない。ただ、時折こうして訳知り顔で鼻をひくつかせた。
「もしかして、嫌われてる?」
ツヤさんや岩さんが近づくと、尻尾を振る。角度によっては笑っているように見える。
「えー、なんで? ケンちゃん、嫌いな人にはもっと露骨やし」
宇羅彦が思い出したように鼻で笑った。ニヤつく顔に、篠原はケンと宇羅彦を交互に見る。
「えっ? なになに? その笑い」
「ケンの露骨さ、エゲツないで」
「そうなんだ。じゃあ、俺はまだ保留ってことかな」
篠原は興味深そうにケンを見つめた。目と目が合うと、ケンはフン! と鼻を鳴らし顔を背けた。その様子を見て、由良姫は少しだけ肩の力を抜いた。
あの日、篠原がいなければ、騒ぎはもっと大きくなっていたかもしれない。篠原はうまく生徒を音楽準備室から遠ざけてくれていた。
祓い終わったあとも、気が立っている二人の言う通り黙々と動いていた。おまけに、早退したいと言うと、担任がツヤさんと知って、伝えておくから帰るよう配慮してくれた。
「篠さん、ほんまにアレ見えてたん?」
「見えてた、っていうか、見えちゃった、かな」
「ふうん。やっぱまだ気になるん?」
「うーん。なんか、もういいかな」
「興味のうなったんか」
ぶっきらぼうな宇羅彦の問いかけに、篠原は嫌な顔もせず淡々と答えた。
「こういうことってさ、知ってしまうと大抵ろくなことにならないんだよね。まあ、どこでもさ」
それに、と篠原は付け加えた。
「たとえ話を聞いたとしても、俺にどうにかできることでもなさそうだし。まあ、もし何か困ったことができたら、それからでいいかな」
「……篠さん、変わっとるな」
「よく言われる」
篠原はコーヒーを一口飲んだ。
「でも、音楽部のことなら少しは話せるかも」
しばらく経つと、由良姫はすっかり打ち解けて、篠原からいろいろ音楽部のことを聞き出していた。
「そうそう、期末テスト終わったらすぐ、教育実習生、来るでしょ。OGもいるから」
「OGって?」
「元音楽部の女性。佐藤先生と噂のあった人だよ」
「教育実習って、大学生?」
「そうだよ。確か樋口とかいったかな」
「なんで、篠さん知ってはるん?」
「うちの高校へも打診があったんだけど、受け入れが難しかったらしい。で、佐藤先生のところへお願いしたみたい」
「ふうん」
「先生の世界って、案外狭いんだよ」
「そおなん?」
「田舎よりも噂はすぐ届くよ」
「こっわあ!」
「高校教師なんて、魑魅魍魎の世界だからね」
篠原は、コーヒーカップを持って物理準備室へ入っていった。
「ツヤさん、ごちそうさま。相変わらず、バロック?」
「まあね、この時期にはこの曲がよく似合う」
「バッハ。ブランデンブルク協奏曲第三番ト長調」
「さすがだね」
「まあ昼寝にはいい曲だよ」
「あはは。昔は好きだったろ?」
「好きだから寝れるんだよね。だから授業では聴かせられない」
「君まで寝てしまうから?」
篠原が声を立てて笑っているのが聞こえた。ツヤさんも一緒に笑っていた。昔からの仲の良さが伝わってくるようだった。
由良姫は、篠原が声を立てて笑うのを初めて聞いた気がした。
二人は親しそうに話をしていたが、篠原は部活が始まるからと音楽室へ消えていった。
「ツヤさん、篠さんと仲良いん?」
「いやあ、篠原君は以前、音楽部の部長をしてたんだよ」
「えっ!? マジ? 聞いてへんわ」
「ツヤさん、音楽部って、なんか変な感じせん?」
「まあ、佐藤先生自体、個性的だからね。篠原君は、音楽部を改革しようとしたんだけど、うまくいかなくてね。よくここへ相談に来ていたよ」
ツヤさんは、遠い昔を懐かしむように話してくれた。
「まあそう言ったって、もう七、八年くらい前のことかな。俺が赴任して間もなくだったし」
「そういえばさ、この学校、先生同士でくっつくの多ない?」
宇羅彦は、気がついていた。この学校自体が、少しおかしいのを。
「俺らの英語の先生と、入学した時他校へ変わってった数学の先生、デキ婚っしょ」
「よく知ってるね」
「日本史の先生と二年の古文の先生、デキてるって噂とか。不倫やろ。まあ、生徒とやないだけマシやけど」
ツヤさんは苦笑いした。
ツヤさんは隣の県から、同じく教師である奥さんと移ってきた。子供ができて、奥さんの実家があるこっちへ来たと以前話してくれた。
「あっ! センセー、ごめん!」
由良姫が謝ったことで、宇羅彦もすぐ気がついた。
ツヤさんは生徒間の噂を知っていた。二人へ軽く注意すると、部活へ参加するよう促し、一緒に隣の特別講義室へと移動した。
期末テスト明け、音楽部顧問の佐藤先生は復職してきた。
それと入れ替わるように、篠原はあまり学校へ来なくなった。
篠原の一言が思い出される。
「ここの学校、腐ってるからね」




