第五話 隠主とオニ
「真白……」
由良姫はハッと我に返った。
父奏司の声を思い出していた。子供の頃、父の側でうたた寝をしてしまうことがよくあった。
あの日もそうだった。
由良姫にとって、父奏司は特別だった。ある意味、母御子姫より特別だったかもしれない。
不思議なことだが、同じ双子なのに弟の宇羅彦と違い、姉の由良姫は体がかなり弱かった。学校を休むこともしばしばだった。
そんな時、奏司の傍で寝ていた由良姫は見ていた。
奏司はよく、左胸を残った右手で軽く撫でながら、声をかけるように話していた。
「真白……」
それは不思議な光景だった。
フワッと奏司の左側が薄く光を帯びる。白い影が見える。
そこにはたしかに、人ではない何者かがいた。
そして、もっと不思議なことに、それは自分の内にある何者かと呼応していた。
由良姫は、その白い影を懐かしく思う自分がいたことを思い出していた。
由良姫が権現山で小狐を助けた時、ケガレに向かっていったその親兄弟を祓った。
その魂は、人とは違い獣ゆえに小さかった。あっという間に蝕が終わり、ケガレに呑まれようとしていたものを、由良姫は意地でも奪い返した。
由良姫は、ケガレを祓った魂を癒して元に戻した。それから、ケガレを祓った体も、後から手伝ってもらい浄めて埋葬した。
それだけではなかった。何百という獣の小さな魂が集まりケガレになろうとするのを、一瞬にして浄化し祓い切っていた。
由良姫には、治癒、癒しの力があった。それを祓いの力に無意識のうちに溶け込ませ、心のままに救いのための祓いをしていた。
それに気づいた奏司は、七五三のお祝いで御子姫の元を訪れた時、異形の里長だった不死人と話し合ったことがあった。
「由良姫が権現山で行った祓いは、今まで見てきたどの祓いにも属さない」
「そうでしょうな。御子姫殿ともまた違う。由良姫殿にしかできないものでしょう」
「それはまたおもしろいのう。良いではないか。私にも癒しの力はあったが、いつしかとうに消えていた。由良姫へ受け継がれたのなら、それもまた運命」
「そうだ。御子姫。由良姫が真白と喋っていたぞ」
「ほう……真白殿とか。ゆくゆくは、ひとつに戻られるからかのう」
「そうですな。真白殿は男神。響家の血脈には姫神の血が受け継がれてきておりますれば。由良姫殿も、産まれたばかりのお姿は御子姫殿と瓜二つでございました。それが、二人目の宇羅彦殿が産声をあげられた瞬間、お姿を隠された」
「そうだったな。そのことはわざわざ手伝いに来させた異形の里の者しか知らぬ。先見のおかげじゃ」
「時が来れば、否応なしに隠主は動きまする」
「覚醒が近いのでしょうか。まだたった七歳なのに」
「心配なのはよくわかりますが、そうとばかりは言えません。覚醒は、謂わば儀式のようなもの。時だけでなく、場が整わない限り始まらないでしょう」
「そうか。そう言われれば、そういうものかも。ちょっと安心したよ。まあ、それでも爆弾には変わりはないけどね」
「奏司。運命は揺るがぬ。じゃが、どの道を行くかは由良姫次第じゃ」
御子姫は諭すように、奏司へ向かって語りかけた。
宇羅彦は、由良姫が小狐を連れてきた日から、明らかに変わっていった。
以前から体の弱い姉を庇う節はあった。しかし、子供ながら一歩引いて見守るなどということは、教えたとしてできることではなかった。
宇羅彦は、豪鬼と同じく鬼人という異形だった。
いつしか、宇羅彦は口にさえ出さなかったが、自分の本当の父は豪鬼なのだと勘づいているようだった。
由良姫の内なる隠主と、宇羅彦の内なるオニは、まるで背中合わせのようだった。
片方が動けば、もう片方の深部も揺れる。
ケガレになりかけ、さらに大きなケガレになろうとしていたものを祓った。その祓いによって、無数に寄り集まった弱き獣の魂の成れの果ては、一瞬にして浄化された。
その癒しの祓いこそが、由良姫の内に眠る隠主が覚醒る最初の兆候だった。
この日を境に、由良姫と宇羅彦との差異は大きくなり始めた。
体格的にはそれほど差のない二人だった。
ところが、宇羅彦はそれこそ豪鬼が幼少のある時を境に一気にたくましくなっていったように変わった。
由良姫はというと、相変わらず細く頼りなげに見えたが、それまでよく憑かれていたはずのモドキが消えた。
しかも、不思議なことに、由良姫が側にいるだけで、奏司に巣喰っていたモドキは気の道へ散っていかなくなった。
何より大きな違いは、二人の気配だった。
宇羅彦は、気が気の道を駆け抜ける速さや強さとなって、成長が目に見えて現れた。それに比べ、由良姫は違った。
普段、その力は隠れている。ただ、一度心を動かされ、力が発現すると、爆発的な力が集まる。
子供の頃にはまだ、由良姫も宇羅彦も力の制御は不安定だったので、その違いまでは見過ごされていた。奏司と眴を除いては、誰も知らなかった。
わざわざ芥見へ知らせることでもないと、奏司は止めていた。
ところが、それは芥見にとっては問題となっていた。
まず最も大きかったことは、ただでさえ視えにくかった由良姫が、芥見の現世の眼をもってしても視えなくなったことだった。
芥見の主人には理解できなかった。万里依も宇宙依も、未だかつてないほど優秀な眼だった。その二人でさえ、由良姫は深い霧の向こうとなった。
反対に、宇羅彦の力の強大さは、ハッキリと主張し始めた。これは響家へと受け継がれた、オニの力の凝縮として映っていた。
一方は隠れ、もう一方は顕となった。
よく、眼を持つ者同士が干渉しあい、視えるものを歪ませることはあっても、完全に視えなくさせることなどできようもなかった。
由良姫には、一族の者ではない何らかの力が働いているとしか言いようがなかった。
由良姫に脅威が隠されているのなら、視ればいい。
これが眼を持つ者の考え方だった。それが日に日に見えなくなっていく。
由良姫の内にある鬼化の爆弾と、その引き金。
それこそ、現世の眼で視れば済む話である。
いつ爆弾が爆ぜるかわからなければ、先見で視ればいいだけの話だった。
いつ、どこで、どのように、起きるのか。
それだけでなく、由良姫自身が霧の向こうへと追いやられていった。もう追うこと自体ができない。完全に隠れてしまった。
得体の知れないものほど、人は恐れ、隠そうとする。
挙句、雁字搦めにし、意のままにしようとする。
隠主とオニ、二つの力が動き出そうとしていた。
眼は、恐れた。
そして、新たな縁が宿命の歯車を回そうとしていた。
柏木の登場は、芥見の眼を持つ者にとってもまた脅威だった。
なぜなら、由良姫と同じく、柏木浩徳を視ることができなかったからだ。
こんなことは一族にとっても初めてだった。
由良姫に対する、視えない、が視界を遮られる霧か靄のようなものだとしたら、柏木に対するものは違っていた。
元からそこに、ない、のだ。
存在さえがなければ、視るにも視ようがなかった。
眴は由良姫と浩徳との間に起きたことは、芥見には一切隠していた。
最初、芥見本家から柏木について視ることができないと聞いてから、きっと何かの作用が働いているに違いないと冷静に分析していた。
それがもしも、隠主の覚醒へ導かれることならば。
守らなければならない。
眴の内側では、網を締めるように強まる芥見の束縛に、すでに一線を超えた警報が鳴っていた。
今こそ、生前、奏司が危惧していた事が起きようとしていた。




