第三話 一年七組松本直美③
直美宅のテラスでは、肉の焼ける音と笑い声が混ざっていた。
長谷川がトングを持ち替える。焼き加減は絶妙だった。慣れている、というより、場数を踏んでいる手つき。
直美の友人二人は、すっかり長谷川の後輩たちに囲まれている。大学の話、サークルの話、車の話。高校生が一番弱い話題ばかりだ。
直美は、その様子を横目で見ていた。
「いい感じだな」
長谷川が小さく呟く。
「なにが?」
「空気」
それだけ言って、肉を裏返す。
少し離れた場所で、優希と優美がグラスを合わせているのが見えた。笑っている。距離は近いが、いやらしさはない。あくまで母親らしく上品だ。
「お母さん、優しいよな」
長谷川は何気なく言った。
「まあね」
「守られてきた人の顔してる」
直美は反応しなかったが、その言葉は刺さった。
守られてきた人。それは母親のことか、それとも自分か。
「直美ちゃんさ」
長谷川は声を少し落とした。
「三人でやるって話、覚えてる?」
「ユニット?」
「うん。あの子ら、ちょうどいいよ」
視線の先で、友人二人が楽しそうに笑っている。
「大学生と繋がれるってだけで、テンション上がって」
「別に、騙してるわけじゃないし」
直美が言う。長谷川は笑わない。
「うん、そう。誰も騙してない。夢見せてやってるだけ」
その言い方は軽くて、温度がない。
「まずはブログかな。三人で写メ上げる。距離近い系ってやつ」
「距離近い系?」
「会いに来れる感じ。コメント返す感じ。アイドルほど遠くない。でも、友達よりちょい上」
直美は黙る。
「直美ちゃんはセンター。あの二人は支え役。役割ちゃんと決めておかないと崩れる」
さらりと言う。友人二人の未来を、配置図のように。
「……で、剛は?」
「俺?」
長谷川はようやく笑った。
「裏方。マネージャー。彼氏ポジは、表向きの看板だな」
看板。直美は、その言葉を反芻する。
庭の向こうで、優美の笑い声がもう一度響いた。少し高い。少し酔っている。
優希がうまくやっている証拠だ。長谷川はその様子を一瞥し、すぐ視線を戻した。
「大丈夫。全部、上手く回る」
トングで肉を皿に移す。油が跳ねる。
「直美ちゃんは、ちゃんと上におる」
保証のような声。直美は、ゆっくり頷いた。
その瞬間、長谷川のポケットの中で携帯が震えた。画面には、優希からの一言だけ。
『いける』
長谷川は、誰にも見せずに画面を閉じた。
炭は、まだ赤い。火は、まだ見えない。けれど、十分に熱は回り始めていた。
二人は直美から、彼氏のことをあまり学校で自慢しない方がいいと言われていた。
「だって、私も、私もってなったら困っちゃう。そんなにイケメンいないと思うし。あの日は、二人が来るから特別連れてきてくれたみたいなの」
「えーっ! そうなん? 直美の彼氏、やさしいね」
直美は二人と一緒に、物理準備室隣の特別講義室でお昼を食べていた。
直美の声はよく通るので、来るとすぐわかった。
由良姫と浩徳は、毎日物理準備室に来ては一緒にお昼を食べていた。
そこには、狐のケンも混ざっていた。
優美は、初めてホストクラブという世界があることを知った。
優希のことが心配で来てみたが、優希は人気者でゆっくり話す暇もなかった。
これなら自分がいなくても大丈夫、そう思って帰ろうとすると、話し相手になってくれた子が頭を下げてくる。
「優希さん、今日たまたまご予約の指名が重なっちゃって。優美さんは大切な方だから戻るまでよろしくって頼まれてるんです」
「大切な方?」
優美は聞き間違えたかと、聞き直した。
「はい、ずっと待っていた大切な方だから、丁重におもてなしするようにって」
「そうなの、じゃあ、もう少し待ってるわ」
焦らしに焦らされて、やっと席に戻ってきた優希は、子供みたいな満面の笑みで優美を抱きしめた。
「ごめんなさい。もう帰っちゃったかと思ってた。よかった、いてくれて」
不安げな表情を見せ、子供っぽかったかと思うと、紳士的に自分をレディーのように扱う。
初日の来店は、あっという間に時間は過ぎていった。
支払いは、カードで一括。しかも、ブラックカードだった。
「なあ、優希。どこで見つけてきたんだよ」
「ナイショ。ちょっと田舎の金持ちの奥様だから、怖がらせないでよ」
焦らずじっくりと、搾り取れるだけいただいて、あとは上手く逃げればいい。
優美の夫には、どうやら愛人がいるようだった。いつからか、週末は泊まりでゴルフが当たり前になっていた。
夫が留守の週末ごと、優美は優希の店へ行くようになった。
当初は、その日のうちに帰ってきていた。
ある日優希が元気がなく、心配で一緒にご飯を食べに行くことにした。いわゆる、アフターである。そこで、優希は優美を確実に繫ぎ止めるため、恋愛モードへと踏み切った。
「優美さん、とってもカワイイ!」
次の来店から、優美の店で金を使う額が変わった。優美の来店時には必ず優希はエスコートし、席に着くとしばらく優美と見つめ合う。
優美は優希が望むままに応じ、請求金額も見もせずサインしていた。
週に一度の幸せな夢の時間を、ずっと続くと錯覚していた。
週末ごとに、翌日曜の昼まで両親のいない直美は、家に長谷川らを呼んでいた。
最初は、ただ騒ぐだけの集まりだった。
だが、BBQの続きのような軽さで始まったユニットの話は、すぐに形になった。
白い壁を背景に、三人が並ぶ。
「直美、真ん中」
言われるままに立つ。シャッターが切られ、動画が回る。長谷川はノートパソコンを開き、ブログを更新した。
「ほら、もう反応きてる」
〈センターの子かわいい〉
〈右の子、雰囲気いい〉
〈ギターの子、笑顔いい〉
直美の指が、ほんの一瞬止まった。自分の名前ではない言葉に、視線が吸い寄せられる。
「まあ最初だしね」
そう言いながら、次の更新では自分のアップを増やした。立ち位置も、角度も、自然に中央へ寄せる。衣装の話になると、直美は迷わず財布を出した。
「三人分まとめて買えば安いし。投資でしょ」
長谷川は止めない。
「回収は物販やな。写真セット作ろか」
その言葉で、支払いはまた直美の側へ滑っていった。
小さなフリースペースのステージも決まった。ノーギャラだが、人は思った以上に集まった。
「センターの子と話したい」
「ギターの子、カワイイ」
「あの子ソロで見たい」
成功だったはずだが、直美の胸は軽くならない。中心にいなければ意味がない。
「次、センター固定で。カメラ正面多めにして」
元音楽部の二人は頷いた。その頷きは、ほんの少し遅かった。撮影は増え、衣装も増え、支出も増えた。指示も細かくなっていく。
「笑いすぎ」
「前出すぎ」
「私の横に立って」
空気が、わずかに冷える。その日を境に、三人で目を合わせる回数が減った。
「返信は私がやるから」
ログイン情報も直美が管理した。長谷川は何も言わない。ただ撮る。編集する。数字を見る。
「伸びてるうちはまあいいか」
それだけだった。週末のリビングには、三人の笑顔とシャッター音が響く。
母親の姿はない。父親も帰りは遅い。家は広く、明るく、静かだった。
画面の中では三人並んでいる。しかし、その均衡はすでに傾き始めていた。
長谷川は少し離れた場所からそれを眺める。
「上出来」
小さく呟いた。長谷川は、画面の再生回数しか見ていなかった。
それから、週末が何度か過ぎた。
優美は、週末になるたび優希の店へ通った。
ある日、いつものように優美はカードで支払おうとした。
黒服が、少しだけ困った顔で戻ってくる。
「申し訳ありません。こちらのカード、ご利用いただけないようです」
「あら、ごめんなさい」
優美は、すぐに別のカードを差し出した。こんなことは初めてだった。その日はそれで済んだ。
だが、次の来店でも同じことが起きた。さらにその次も。やがて、財布の中のカードがすべて使えなくなった。
その場の空気が、ほんのわずかに変わる。
「後日決済でも大丈夫ですよ」
そう言われたが、優美は笑えなかった。
数日後、自宅に分厚い封筒が届いた。明細書だった。
数字は並んでいるだけなのに、桁が現実味を持たない。
分割にしていたはずの支払いが、一括請求に変わっている。そして、会社名義のカードも含まれていることに、その時ようやく気づいた。
優美は、しばらくそれを理解できなかった。
電話をかけても、優希は出ない。店に問い合わせると、「退店しました」とだけ告げられた。
夢の時間は、音もなく終わった。残ったのは、請求書だけだった。
その夜、優美はリビングで封筒を広げたまま動かなかった。帰宅した夫は、テーブルの上の数字を見て言葉を失った。
「これは何だ」
問いではなく、確認でもなかった。怒号が飛ぶこともなかった。ただ、長い沈黙だけが流れた。互いに相手の目を見ない。
積み重なっていたものが、形を持つ。家の空気は、目に見えない澱みを抱え始めていた。




