第二話 一年七組松本直美②
バブル全盛期が斜陽に入った頃でも、高級ホストクラブはまだ全盛だった。
親の金で遊ぶ女子大生や、時間を持て余した富裕層の女性たちは、夜の街で格好のターゲットになっていた。
長谷川のツレにも、学費を稼ぐためホストになった大学生がいた。
一条優希である。
苦学生の優希にとって、親の金で遊び回る客は決して好きな相手ではない。それでも、笑顔を作って見せるには彼なりの思惑があった。
そして、当日、一条優希はやってきた。
少し影のあるところが、一目で直美の母親の心を鷲掴みにした。
当然、当日直美が呼んだ、元音楽部の一年女子の二人は、ユニットメンバー候補だった。
彼女たちは、日頃から直美が大学生と付き合っているのを羨ましく思っていた。
そんなところへ、直美からの誘いがあった。
「当日は、剛も友達とか連れてくるって。大学生と仲良くなるチャンスだよ」
利用されるとは知らず、新しい出会いに胸躍らせて女子二人はやってきた。
長谷川が連れてきたのは、いつもの仲間ではなく、直美も初めて会う人ばかりだった。
後輩だという四人は、全員妙に整っていた。その上、どこか人慣れしていて、距離の詰め方が上手い。
長谷川の思惑が満載のBBQは始まった。
ちょうど同じ頃、有名な川の上流のBBQスポットへ、万里依が運転する車に乗って数名が向かっていた。
最初は学祭のお疲れ様会を、家でやることになっていた。
ところがそのうち、話が大きくなって河原でのBBQとなった。
当日朝、浩徳がバイクで由良姫を迎えに来た。
「眴ちゃん、行ってくるね」
メットをかぶる由良姫を見て、やはり渋い表情をする。
「本当に、大丈夫ですか」
「はい、免許取ってから無事故無違反、一年経っててタンデムもOKなんで」
「眴ちゃん、昨日いいって言うたやん」
「バイクは昨日整備してます。安全運転に努めます!」
浩徳は、自分の免許証を眴に渡して見てもらった。
昨日の午後、浩徳は由良姫と宇羅彦と一緒に、高校から二人の家へ来ていた。
眴はあらかじめ、先に宇羅彦から由良姫と浩徳の間に生じたことを聞いていた。
あらためて、眴は柏木浩徳について調べ始めた。
そこで、芥見の姉弟に相談したところ、意外な返答があった。
二人ともに、柏木浩徳を一切視ることができないという。
由良姫に聞いても、要領を得ないことしか返ってこなかった。
実は、由良姫自身も、自分の身に起きていることがわからないでいた。
それならと、眴は直接本人と会うことにしたのだった。
結果は明白。驚くべきことに、眴の常世の眼でも視ることができなかったのだ。
それに、狐のケンも、初対面に関わらずすぐ隣でくつろいでいた。
「じゃあ、いってきます」
後ろに乗る由良姫に、背中にくっついてしっかり指組んで手を握るよう教える。
握った手の上から浩徳は、手を添えて確認した。背中に命を預かる。
由良姫のドキドキする鼓動が伝わってくる。
眴が見守る中、二人はバイクで万里依たちの後を追った。
由良姫と浩徳にとって、初めてのタンデムとは思えないほど息が合っていた。
途中で追いつくと、宇羅彦が外を見ながらボソッと呟いた。
「いいなあ、俺も免許取ろかな」
由良姫が身じろぎするたび、浩徳にはその動きが背中越しに伝わった。曲がる時も、止まる時も、互いに合わせようと意識するより先に身体が動く。
由良姫もまた、不思議なくらい怖さを感じていなかった。
直美の家でのBBQは、手慣れた長谷川が火を起こし野菜を焼き始めていた。
優希はキッチンへ行き、直美の母親を手伝おうとした。
「お母さん、飲み物持っていくの手伝いますね」
ジュースやビールを出しながら、優希はふとシャンパンが冷えているのを見つけた。
「お母さん、ていうか、失礼じゃなかったら、お名前で呼んでもいいですか?」
一瞬、戸惑いを見せる直美の母親に優希は笑いかけた。
「だって、僕のお母さんじゃないし、なんか変な気がして」
「あの、優美です。あの、シャンパンいかがですか?」
「オシャレですね、お好きなんですか? ぜひ、乾杯しましょうよ」
テラスの向こうでは、みんなが飲み物を待っていた。
「誰に乾杯の音頭、取ってもらう?」
「私、そういうのやってみたかったの!」
直美はニコニコしながらグラスを持つと、勢いよくカンパーイ! と言った。
店では毎回、浴びるほど飲まされるドンペリを、優希たちは美味しそうに飲んで見せた。
長谷川が肉を焼き始める。出された肉を見て、さすが金持ちだなと思った。
霜降りのロースが豪勢に山盛りある。
母親が作ったというオードブルも、どう見ても高級そうだ。
優希は、直美の母優美と乾杯した。
「どんな字を書くんですか?」
「優しい、に、美しいです」
「じゃあ、僕とお揃いですね。僕はその優に希望の希です」
優希は笑いながら、優美の指先や服、食器の選び方まで何気なく見ていた。金がある。それだけではない。自分が価値を認めれば、いくらでも与えようとする人間だと、すぐにわかった。
優希はさりげなく、優美を誉め殺し始めた。
容姿から始まって、料理や食の好み、挙句には食器にキッチンやリビングの内装まで。
普段から優美が気にかけているのに、誰も褒めたりしないところを。
それを素敵だと言ってくれ、品良く微笑み返す優希に、優美は完全に心奪われていた。
他のイケメンたちも、直美にしっかりアプローチしながら、あとの二人ともすでにいい感じになっていた。
彼らにとって恋愛はゲームで、金を稼ぐ手段の一つでしかなかった。
キッチンで、優美がデザートを用意するのを優希は手伝っていた。
優美はキッチンで果物を切っていた。手慣れた動きで、りんごを薄く飾り切りにしていく。
「わあ、綺麗ですね」
優希が素直に声を上げた。
「そんなことないのよ」
そう言いながら、優美の手元は少しだけ丁寧になる。
「料理、好きなんですか?」
ただそれだけで、優美はわずかに誇らしげな表情を見せた。
優美は、誰かに褒められることを久しく忘れていた。その笑顔は、少しだけ少女のようだった。
「昔はね。友達を呼んで、よくパーティーなんかもしてたの」
包丁の刃先が、光を弾く。
「今は直美も忙しいし、こういうのも久しぶり」
優希は皿を取り出し、自然な手つきで並べる。主役の隣に立つ位置を、無意識に選ぶように。
「こういう家で育ったら、直美ちゃんも華やかになりますよね」
押しつけではない。その確認のような言い方に、優美は小さく笑った。
「華やか、かしら」
けれど、その言葉を否定はしなかった。
外から、直美の高い笑い声が聞こえる。長谷川が何か面白いことを言ったのだろう。
優希はグラスに氷を入れながら、視線を落とす。
「僕の家は、ちょっと事情があって。今は自分で学費を出してるんです」
重くならない声音。告白ではなく、情報として置く。優美の手が止まる。
「大変ね……」
「でも、こういう素敵なお宅に呼んでもらえるだけで、十分です」
優希はまっすぐに言った。
優美の胸の奥で、何かがわずかにほどける。与える側でいられること。選ぶ側でいられること。その感覚は、思っていたより心地よかった。
テラスの向こうで、直美がちらりとキッチンを見た。
母親が笑っている。少しだけ若く見える笑い方だった。胸の奥に、ほんの小さな引っかかりが生まれる。
けれど、長谷川が肩に軽く触れた瞬間、その違和感は霧のように消えた。
庭では肉が焼け、グラスが鳴る。キッチンでは、りんごの花が皿に並ぶ。
まだ誰も、崩れ始めていない。
ただ、それぞれが自分の立ち位置を、静かに確かめていただけだった。




