第四話 三年五組沢田美由紀④
父親が倒れ、やがて意識不明になった。回復は一時的で、それが希望を膨らませ、ペチャンコにした。いっそのこと、希望など要らなかった。
計器に繋がれた父親の姿が、家の空気を重くしていった。
そこへ、義兄が頻繁に顔を出すようになった。
最初は心配してくれているのだと思った。家で採れた野菜を持ってきたり、役所の手続きの話をしてくれたり。
けれど、その視線が長いことに、美由紀は気づいていた。
母が背を向けると、じっと見ている。母が笑うと、目が濁る。
家の中に、魚の腐ったような臭いが漂い始めたのは、その頃からだった。
「お父さんがいないと、何も決められへんね」
その言葉に、義兄が静かに近づいた。
「わしが決めたる」
その声は、やさしいようで、どこか湿っていた。
美由紀は吐き気を覚えた。パパ活で嗅いだことのある臭いと同じだった。
母親はもう、自分で抱え込むことに疲れてしまったのだろう。誰かに頼り任せてしまいたかったのかもしれない。その隙間に、黒いものは流れ込んだ。
まるで、家そのものがドス黒いものに包まれていくように。
「もうそろそろ行かなあかんのとちゃうか」
宇羅彦は由良姫へ声をかけると、車の外に出ようとした。由良姫が家の前の人影に気がつく。
「ウーちゃん、真ん中の家の前、誰か人がいてる。ちょっと見てくる」
そこに立っていたのは、美由紀と雄一郎だった。二人もまた、いつにない家の気配に足を止めていた。
美由紀が由良姫を見つけ、声をかけた。
「あの、突然でごめんなさい。なんか家がおかしい気がするの」
美由紀は門に手を添えた。その手は、開けたくても開けられないという様子だった。
その瞬間、モドキの塊がズルッと家のドアの隙間から這い出してきた。由良姫は美由紀と雄一郎ごと結界を張った。
「家の中へ入らせてほしいんです」
由良姫がそう言った時だった。家の中から、畳を擦るような音が微かに聞こえた。
ズ……ズル……
美由紀は聞こえないふりをした。だが、目は嘘がつけなかった。
「ここにおると、あなたたちまで巻き込まれてしまう。ちょっと離れて下さい」
「何言うてんのや。俺らは中に入らんといかんのや」
「待って! お兄ちゃん、話聞こうよ」
「うちと弟を中へ入らせて。今、止めんと取り返しつかんくなる」
美由紀の顔が強張った。由良姫の表情は切羽詰まっていた。
「……助けられるん?」
美由紀の問いに、由良姫は答えなかった。
「家の中へ入れて下さい」
由良姫はただ繰り返した。美由紀は頷くしかなかった。それでも、美由紀は食い下がった。
「うちも一緒に行きたいの。行かんといかんの!」
車の運転席で、眴が嗚咽を漏らしながら常世の眼を押さえた。
今まで見たことのない、鬼の形相に変わりつつあった。
「眴っ!!」
助手席に座っていた宇羅彦が、初めて目にする眴の苦しみようにうろたえる。
眴の呼吸が急に荒くなる。指の隙間から覗く常世の眼が、さらに黒く濁り、黒い血のような涙が滴る。
宇宙依が叫ぶ。
「鬼化か!? なんでや!?」
宇宙依の頭の中で組み立てていた段取りが、一瞬で崩れ落ちた。
「鬼化? ってなんや!?」
眴はハンカチで常世の眼を抑えながら呻いた。車のクラクションが鳴り響き、眴は運転席からドアを壊しかねない勢いで飛び出した。
「眴ちゃん!?」
車の方を見ていた由良姫が、思わず駆け寄ろうとして止まる。家の前にいる美由紀と雄一郎は意を決して中に入っていこうとする。
「あかんっ!! 待っとって!!」
宇宙依が頭を抱え込む。宇羅彦が宇宙依に必死で、どうするかをきく。
宇羅彦の握り拳に力が入る。宇宙依は言葉にならない声が漏れるばかりだった。
宇羅彦が車から降りると、うずくまって体を強張らせる眴の名を呼び続ける。
こんな眴を見たことがない。細い体の筋肉が、不自然に盛り上がり始める。
「眴っ!! あかんっ!! やめてくれっ!!」
宇羅彦が叫ぶ。眴を抱えこみ、必死に鬼化を止めようとする。抱きとめた細い体が、宇羅彦の腕の中で脈打つように盛り上がる。
道の真ん中にいる二人が、ヘッドライトに照らし出される。
万里依は鬼化しかける眴が視えていた。
「遅なってごめん!!」
万里依と一緒に、大那と虎雅がやっと合流した。三人とも慌てて車から降りてくる。
「宇羅彦っ!! 眴の瘴気を祓えっ!! 術かけるんやっ!!」
宇羅彦は万里依に言われるがまま、眴にまとわりつくケガレの瘴気を祓った。
万里依が駆け寄る。眴の眼の様子を見る。
「なんでや? 視ようとしたんか!? 薬はあるか!?」
眴は瘴気が一旦抜け、間一髪鬼化を免れた。胸ポケットから丸薬を出し飲み下す。残りはもう二粒しかない。
それを見て万里依が眴を車に乗せるよう、宇羅彦に指示を出す。
「宇宙依っ!! 何してんのや!! 一緒に行くでっ!!」
宇宙依は車から転がり出て、もつれる足で万里依の車に乗ると、万里依は現場から少し離れた。車を停めると、宇宙依に眴を任せ走った。
「さあっ!! 行くでっ!!」
家そのものが、もの凄い瘴気を発していた。美由紀と雄一郎は異様な雰囲気を感じ立ち尽くしていた。
「由良姫っ!! そこの人らを連れて来るんや」
初音と凛華は車に乗ったまま、あまりのことに何もできずにいた。二人はただ震えて固まっていた。
そんな初音と凛華のそばへ、大那と虎雅が駆け寄る。
「車から出られる? これから祓いに行くよ」
虎雅が優しく声をかける。大那が中を覗くと、やっと凛華が車から降りてきた。続いて初音が恐々降りてくる。
いつもと違って、大那も二人へ何も言わない。
初めては、誰にでもある。
由良姫が大声で万里依へ伝える。
「中に入りたいって!! 一緒に行きたいって!!」
万里依は宇羅彦へ、まず由良姫と一緒に真ん中の家を覆うように結界を張らせた。
「なんや、あの人らは」
「あの家の人やと思う。家の前におって。由良姫が止めとった」
「なんやもう、由良姫が結界張って守っとるやんか。知り合いか!?」
宇羅彦は黙ったまま。そういう時は、まず図星だった。
「わかった。まあええわ。早よしなケガレになっ……っっ!!」
万里依の瞳孔が大きく開いた。家の奥で、何か巨大なものがゆっくり脈打った。
「……っ!」
万里依は家の中を視た瞬間、眼を押さえて吐き戻した。
口をハンカチで拭うと、気を取り直して指示を出す。
──あかん!うちが怯んどったら終わりや!
「宇羅彦、由良姫と一緒に結界張ったまま、あの人ら守って連れて行けるか」
「祓いを見せるんか!?」
「由良姫の知り合いなんやろ。ごねてる場合ちゃうで、一緒に行く言うなら連れてけ」
万里依のその言葉は、守れと言いつつ、いざとなれば──という意味に聞こえた。宇羅彦は拳を握る。
「中に入らず待っとるいうことは、わかっとるってことや。覚悟して行くやろ。ほんなら、連れていったらなあかんちゃうんか。心が、悔いが残ったらあかんねん。そこにまたモドキが憑く。下手したら、ケガレをもらう」
「うっす!!」
宇羅彦は由良姫と一緒に待つ、美由紀と雄一郎の元へ駆け寄った。
「一緒に行く。覚悟して下さい」
「そんなもんはとうにできとる」
雄一郎が美由紀を庇いながら答えた。
由良姫は美由紀と一瞬見つめあった。
「やっぱりあなた、狐の……?」
「なんや、知り合いか。こんな時間に何しとる!?」
「それより、行きますよ。うちと弟が二人を守ります。真ん中に挟んで入って行くから、何があっても離れんといて下さい」
「わかった。聞くだけヤボやな。頼むわ」
美由紀は大きく頷いた。雄一郎は生唾を飲み込んだ。
由良姫と宇羅彦は、家に結界を張りつつ、四人分の結界を張ると玄関を開けた。その瞬間、生ぬるい風が当たった。
「うっ……!」
美由紀は鼻を覆ったハンカチを握りしめた。
それは今までの腐臭とは違った。まるで生き物の腹の中へ入るような臭いだった。
中からは、未だかつてない瘴気とともに、降るようにモドキがぶつかってきた。
黒い粒は獲物を探す蟲のように壁や天井を這い、結界へ群がってきた。
玄関を閉めた音だけが、家中に不気味なくらい響いた。
外の気配が、すべて途絶える。




