第二話 三年五組沢田美由紀②
美由紀は大きな街の駅裏にある大手予備校へ通っていた。今日もいつも通り、午前中講義を受けていた。
昼はどこかファストフード店で食べて、今まではどうしていただろう。多分、図書館や塾の自習室で勉強していた。
しかし今日は、なんだか無性にプールでひと泳ぎしたかった。美由紀はプールの用意を一式持って家を出ていた。
学校に寄ってプールへ行くと、案外自分と同じように息抜きで泳ぎに来たという三年がいた。
「なんだ、沢田も来たのか」
「お父さんのこと、聞いたよ。元気出せよな」
下級生たちも美由紀の周りに寄ってきて、口々に父親のことを話していた。たとえ自分から話さなくても、田舎はこういうことは伝わるのが早い。
空いているコースで、美由紀は思い切り三十分ほど泳ぐと、少しだけスッキリした。
心地よい脱力感がある。
美由紀がプールから上がってシャワー室へ向かうと、入り口で狐が寝そべっていた。
「えっ!? キツネ!?」
狐のケンは鼻をヒクヒクさせ、臭いを嗅いだ。そして、ふん! とでもいうようにその場を立ち去った。
「ケーン!! どこ行ったーん!!」
由良姫がケンを探してやってきた。ちょうど美由紀は、シャワー室へ入るところだった。
二人は顔を合わすと、互いに一瞬立ち止まった。以前にも似たようなことがあった気がする。
美由紀は、シャワーの水が肩を打つ感触をぼんやり感じながら、さっきまでの水の軽さを思い出していた。
水の中では、余計な声が聞こえない。
金の話も、進路の話も、誰かの期待も。
ただ、自分の呼吸と、水をかく音だけ。
最近、周りの空気が妙に軽い。いつもあった、監視に似たまとわりついていたものが、いつの間にかなくなっていた。
楽になったはずなのに、胸の奥が少しだけ、ひりつく。
何かが終わった。
けれど、代わりに何が始まったのかは、まだわからない。
由良姫は美由紀と目が合った瞬間、その違和感がほんの一瞬だけ形を持った気がした。
世の中には、モドキによる気枯れに強い人もいる。巣喰われていても、そう簡単にケガレにはならない。
反対に簡単にモドキに侵されてしまう人たちもいる。
美由紀の母親は、葬儀後初めてやってきた義兄に頭を下げていた。
「お願いです、もう今日は堪忍して下さい」
美由紀は川沿いの遊歩道の木陰を歩いていた。その先に、雄一郎が立っていた。
まるで、美由紀を待ち伏せていたようだった。
「今、ちょうど親父と叔母さん、これからのこと話し合っとる。おまえは、行かん方がいい。車で来とるで、ちょっと喫茶店でも行かんか?」
美由紀は年の離れた、この従兄弟のことがなぜか苦手だった。嫌ってはいない。ただ、苦手なだけだった。
美由紀が無視して通り過ぎようとすると、雄一郎はその腕をつかんだ。
「何するん!」
「無視するからや。おまえみたいな小便臭いガキに、なんもしいせんわ」
「じゃあ、お母さん狙いとか!?」
「そこまで女に不自由しとらん。おまえ、想像力豊かすぎ。そんなことばっか考えとるんか」
「そんなことないわ」
「今はおまえの大事な進学のこと話しとる。おまえ私立のお嬢様大学行きたいって言うとったやろ。その金の話をしとる」
「そんならもういい、県大に志望変えたし。お金かからんようにするで。あんたらの世話にはならせんわ!」
「へえ、おまえ賢いなあ。県大かあ、こっから通えるしなあ」
そこで、グウッと美由紀のお腹の音がなった。
「なんや、昼飯食っとらんのか。ほな、ファミレスでも行かんか」
美由紀は仕方がないなと、雄一郎について車に乗っていった。
昼過ぎの安いファミレスは、図書館代わりにする学生で溢れていた。
そこへ大人の男性と女子高生という異質な組み合わせでの入店は、周囲からチラ見の対象となった。
「おい、おまえらの頭ん中は、そんなことしかないんか?」
「ちょっと、お兄ちゃん!」
美由紀は雄一郎のことを小さい頃からそう呼んでいた。思い返せば、結構可愛がってもらっていた記憶がある。
「このませガキが、妹に手ぇ出すカスがどこにおるんや」
雄一郎が大きな声でそう言うと、周りからのチラ見が止んだ。
「なんで、あんなとこおったん?」
「親父を乗せてきて、話が長くなりそうやったんで。叔母さんから、おまえに飯食わせてやってくれって頼まれたんや」
「なんや、最初からそう言ってくれればよかったのに」
美由紀はデザートまで食べて、すっかり満足していた。
「ちょっと待っとって。今おまえん家に電話して確認するで」
雄一郎が取り出したのは、最新の携帯電話だった。いわゆるガラケーの初期モデルである。時代はバブルがはじけ、ゆるく傾き始めていた。
「うわぁ!? ねぇ、ちょっとだけ見せて」
「あかんあかん、高いんやで。会社のやから」
美由紀の家の電話が鳴った。
「お母さん、出た?」
「もしもし……」
「あ、お母さん? お兄ちゃんとファミレスいてる」
「ちょっと返せ! 通話料、高いんやから」
美由紀の母親は電話を切ると慌てて居間に戻った。
「美由紀のこと、よろしくお願いします」
「あんたさえ、わしの言う通りしとったら、なんぼでも言うこと聞いたるわ」
まだ父親の四十九日も明けていなかった。
叔父が家へ来るようになったのは、倒れた父親が意識不明になってからだった。母親は何もひとりで決められない類の人だった。
叔父が頻繁に来るようになった同じ頃、クラスの女子グループから美由紀へのイジメが始まった。
高校三年にもなって、そろそろ受験一本だというのに不思議なことだった。
美由紀は、そういうことすべてに耐えていた。初めてのパパ活の時の怖さとか、そんな記憶だけはクルクル頭を巡る。
だが、誰ととかイジメのグループのメンバーさえ浮かんでこない。
そんな話を思わずチューターの伊藤に話したことがあった。
「私、精神的に何かあるんでしょうか。辛かった部分だけ抜け落ちたようにないんです」
「僕は医者じゃないから、なんとも言えないけど。辛い記憶を消してしまうことって、あると思うよ。それっていけないことなのかな、沢田さんにとっては」
「そういうわけではないんですけど。きっと忘れてしまっていいってことなんですよね、多分」
「僕は、そう思うよ」
父親の通夜に伊藤が来てくれた日から、よく些細なことでも美由紀は伊藤を頼って相談するようになっていた。
それを、仲間内の同じチューターの女性が揶揄した。
「伊藤さん、そこそこにしておかないと。まだ奥さんと離婚協議中でしょ」
「ええっ!? あの子は高校生だし。お父さん亡くしたばっかで、不安定だから。仕事だよ、やだなあ」
「世の中、そんなふうに見てくれる人ばかりじゃないですよ。噂になってからじゃ遅いんですからね。もう懲りたんじゃないんですか」
「ああ……心配、ありがとね」
以前、伊藤は大手の商社マンだった。いわゆる高給取りで、社内でも美人で評判な女性と結婚した。人生の絶頂期、だと思っていた。
気がつけば妻は結婚前から続いていた相手と不倫し、たまりかねた伊藤は離婚を切り出した。
そしてあとから、その相手が取引先の上司だとわかった。伊藤の会社内での結末は呆気なかった。
「伊藤さん、お客さん……」
同僚が受付カウンターへ来ていた雄一郎を、わざわざ別室へ通していた。
「あんた、この間、通夜に来とったやろ」
雄一郎は、この地方最大の自動車メーカーに勤めていた。その社名自体が、すべての信用への免罪符になるような会社だった。
伊藤は、美由紀の兄だという雄一郎から名刺を預かった。
その社名を見て、伊藤は小さく息を呑んだ。
世間は案外狭いものだった。
「今、美由紀がどれだけ大切な時期だか理解しとるよなあ。頼られたからって、何でもかんでも受け入れてもらったら困るんや」
「はい。そうですが……」
「俺からも美由紀には話しする。あんたも担当変わるなり、どうにかして受験に専念させてくれ。できんのやったら、ここは辞めさせる」
伊藤は雄一郎の静かな剣幕さに気圧された。
「そうですね。大人であるはずの、自分の判断が甘かったです。お兄さんの仰る通りです。申し訳ありませんでした」
伊藤には、雄一郎の言葉がこたえていた。頼られ甘えられ、その挙句にすべてを失っていた過去がよみがえる。
それでも、伊藤はまた同じ過ちを繰り返すところにいた。




