第一話 三年五組沢田美由紀①
美由紀は、この数日、ずっと不思議な感じがしていた。
今までよく鳴っていたポケベルが鳴らない。なにより、パパ活をしても残らなかったお金が財布に残っている。それにもう、パパ活に誘われなくなった。
不思議なことに、気がつけば、美由紀の周りからイジメる子たちが消えていた。そして皆、受験へまっしぐらになっていった。
街へ出ても声をかけられることはなくなり、予備校へ向かう人の波に乗っていく。予備校と家との往復だけ。
その静けさに、どこかまだ美由紀は馴染めないでいた。
予備校の夏期講習に行くと、チューターに呼び止められた。
「沢田さん、今日はいつもと違って落ち着いた感じでいいね」
「そうですか? いつもこんな感じですけど」
「時々ドキッとするくらい大人びた服着てきたり、スカート短かったりしてたし」
そういえば、確かに自分で選びそうにない服がいつの間にか何着かあった。
ふっと、あのグループと街を歩いていた日の景色が脳裏をよぎった。
「まあ、似合ってたしそれはそれで可愛かったけど。予備校に来る格好じゃないから、授業の後にデートかなとか。大事な時期だし、気になってたんだ」
「そうですか。友達と買い物に行った時、ちょっとイメチェンしてみようって。でも、これからはもう着ないと思います。やっぱり違うなと思ったので」
「オシャレは大学入ってからいくらでもできるから。これからの数ヶ月が勝負だからね」
チューターは伊藤といった。三年になってから担当になり、いろいろ進路について相談に乗ってもらっていた。
美由紀の父親は中間テストが終わったあと、職場で倒れ救急車で運ばれた。それからずっと入院している。それも相談していた。
美由紀の場合、相談というよりも、話の聞き役とでもいうのか。母親に話をしても、かえってうろたえさせるだけだった。
「それでさ、やっぱり大学の希望って変わんない? 沢田さんなら十分国公立狙えるんだけど。無理して私学のお嬢様大学行かなくてもさ」
「あ……えっと……」
美由紀は元から国公立を希望していた。地元で通える大学へ行き、保母になるのが夢だった。
いつの間に、そんな進路希望に変わっていたのだろう。
父親が健在だったとしても、自分では選びそうもない進路だった。
「あの、私、県大の教育学部でお願いします。父のこともありますし。その進路希望は何かの間違いだと思います」
「そうか。安心したよ。お父さんのこと聞いてたから、よかったよ。県大なら家からも近いし、何より学費が安い」
伊藤はどこかホッとしたように、書類を取り揃えていた。模試の結果や進路指導等、美由紀に見せながら、夏休み中に目指すところを話し合った。
「県大なら十分狙えるし、まずは受かることを考えよう。また何かあったら相談乗るから、いつでも来てくれればいいからね」
美由紀は、礼を言って頭を下げた。資料などをスクールバッグへ入れる。その様子を見ながら、伊藤は美由紀に話しかけた。
「お母さん、お体の方は大丈夫? ずっと具合が悪いらしいけど、お父さんのことで無理してるんだね。沢田さんも大変だと思うけど頑張って。今からみんな本腰入れてくるから。お金のこととかも、どうとでもなるから」
伊藤は、美由紀に念押しするような口調で言った。
予備校へはいろんな環境の生徒が来る。実際、勉学上の悩みや進路指導より、美由紀のような不安定さを持つ生徒を、支える役目の方へ比重を置くチューターも少なくなかった。
「伊藤さん、ほんま心配性やなあ」
美由紀は久し振りにすっきり整った気がした。未来への方向性。
今度父親の見舞いに行ったら話そうと思った。
父親は、美由紀のことになると、いつも時間を割いてくれた。父親参観日には必ず来てくれていた。
歳が経ってからの子供だったので、美由紀は目の中に入れても痛くないほど可愛がられた。父親との間にはいい思い出しかなかった。
そんな父親から、進路で悩んでいたある日、言われたことがあった。
「行ける大学やない。行きたい大学へ行きなさい」
志望大学を、県大にしたと伝えた時、父親は嬉しそうに笑っていた。
「県大はいい大学やで。お父さんが行っとったとこやしな」
次の見舞いで、やっと安心させられる。美由紀は、そう思っていた。
美由紀は塾から帰ると、どこか家の様子がおかしいことに気づいた。ご飯が食べかけのままで、母親の姿がなかった。
嫌な想像がよぎっていく。
そこへ、家の電話が鳴った。
「もしもし、お母さん? どうしたん? ご飯食べかけやし」
母親の声は震えていた。受話器の向こうから、病院独特のザワザワした音が聞こえてくる。
美由紀は何度も、もしもし、と聞き返していた。そして、一言。
「お父さん……お父さんがっ!」
その声は、そのまま嗚咽に変わった。
そこへ突然、叔父の声が割り込んできた。父親が急変して亡くなったと告げた。
美由紀は、あまりのことに足元から崩れ落ちた。今日の今日、チューターの伊藤と進路変更して励まし合ったばかりだった。
突然の父親の死で、母親は茫然自失となっていた。
美由紀は、病院へ駆けつけた。
誰も父親の死を悼むどころではないようだった。叔父や叔母が、金の話ばかりしている。入院費の精算、葬儀社の見積り。
看護師に促されるまま、美由紀と母親はベッドについて歩いていた。
行き先は霊安室だった。何もかもがベルトコンベアーのようで、悲しむ余白を作らせない。
父親に頼りきりだった母親は、美由紀より頼りなさげだった。
美由紀は思った。こんな時に、お兄ちゃんが来てくれたら。
金の話ばかりする叔父と叔母よりも、その息子の従兄弟の方がまだマシな気がした。
田舎のこと、長男夫婦は年老いた両親の面倒をみながら、農家と役場勤めの兼業だった。
美由紀の父親は長男と少し年が離れており、次男で公務員だった。
大人同士の話し合いは、美由紀の目からはいやらしいところしか見えてこなかった。
美由紀はたまらなくなって、チューターの伊藤に父が亡くなったことを連絡した。
「ええっ!? 大丈夫か? とにかく、俺の携帯番号教えとくから」
本来、禁止されていることだった。伊藤は事情が事情だからと、番号を教えてから、自分に弁明を与えていた。
通夜には、叔父の息子、雄一郎が帰ってきた。雄一郎は三十歳ちょっと、地元を離れ隣県の大都市で会社勤めをしていた。
美由紀の母は若くして美由紀を出産し、四十手前で未亡人となってしまった。
叔父と叔母はその点、六十近かった。祖父母は八十をとうに過ぎ、介護の問題もあって施設へ入っていた。
母親は喪主だったが、何をするでもなく父親のそばについていた。
「雄ちゃん……どうしよう」
通夜のために帰ってきた雄一郎を、母親は縋るような目つきで迎えた。
通夜には、田舎らしく親戚や職場などから大勢人が来た。
美由紀は憔悴しきった母親を気遣いながら、父親の遺体の側で過ごしていた。
そこへ、久し振りに会う、おじさんになった従兄弟、雄一郎が来た。
別の部屋では叔父が親戚と酒を飲みながら話をしていた。どうしたって聞こえてくる内容があまりにひどい。雄一郎は顔をしかめて、美由紀と母親へ謝った。
「なんや、親父はしょうもないなあ。酒が出とるんか。大勢来とるなあ。どうせ、親父が金は出すやろ。付き合いもあるで、ちょっと辛抱したって」
美由紀はひとり、静かな場所にいたかった。
葬儀場のロビーで、気づけば伊藤の携帯へ電話をかけていた。公衆電話からでは、せいぜい通夜のことを話すくらいしかできなかった。
美由紀は何も期待はしていなかった。ただ、今ここに伊藤がいてくれたらと思っただけだった。
そこへ夜も遅いのに、伊藤が駆けつけてくれた。
「沢田さん、大丈夫?」
思いもかけない出来事に、美由紀は張りつめていたものが切れたようだった。
美由紀は伊藤の前で肩を震わせ、やっと泣くことができた。伊藤は美由紀の肩にやさしく手を置いた。
その様子を、タバコを吸いにきた雄一郎が見ていた。
伊藤の手は、まだ肩から離れていなかった。
「やっぱ、蛙の子は蛙かよ」
雄一郎は美由紀と伊藤を見つめながら、ボソッと吐き捨てた。




