第八話 夏季合宿の怪
古い体育館を取り壊した跡地に、今年新しく合宿施設が完成した。申請条件さえ満たしていれば、どの部活動でも使用可能だった。
八月一日から一週間、音楽部も合宿することになっていた。OBやOGも何名か来る。そのうち教員免許を持っている者が三名もいた。
もちろん、篠さんも通いで参加するらしかった。
由良姫と宇羅彦が参加している科学部ロボコン班もまた、新しくできた合宿所を使ってみたいというだけで、二泊三日で合宿を申し込んでいた。
宇宙依は、今すぐ何かが起きるわけではないと言っていた。
用心するなら、合宿中より、そのあとだと。
「そっちの方が規模が大きいというだけで。合宿中に何も起きないと言ってるわけじゃない」
「そうですね。合宿というのは、ある意味逃げ場がなくなりますからね。集団で同じ方向へ進む、というのは、いろいろあって当然です」
「うわあ、眴ちゃん。なんかあったん?」
「いえね、そういう場所にいたことがあったというだけの話ですから」
翌朝、眴は心配そうに由良姫と宇羅彦を送り出した。二人は顧問のツヤさんの取り計らいで、二人部屋を用意してもらえた。
科学部ロボコン班は、初の合宿というだけでなく、合宿所の広い多目的室が一日中借りられるとあって沸いていた。エアコン完備の広い部屋での試行、これ以上ない環境だった。
その間に合宿所で一緒になるのは音楽部だけだった。音楽部は六十名以上の大所帯の上、最優先で使用許可が下りた。ここ数年金賞を逃していても、過去の栄光の威力はさすがだった。
由良姫と宇羅彦が到着する頃には、すでに音楽部は音楽室へと移動したあとだった。
全員多目的室でオリエンテーションが終わると、時間がもったいないとばかりにロボットの試行に取り掛かる。
つい切りがいいところまでと、延々やっていたところ、とうとうツヤさんが呼びに来た。
「いつまでやってるの。夕飯食べないと、食堂のおばさん困るでしょ」
ちょうど音楽部が食事をしているところだった。ロボコン班は由良姫以外全員男子だった。
そこへ篠原がコーヒー片手にやってきた。ツヤさんに軽く挨拶すると、由良姫と宇羅彦の前に座った。
「やあ、君たちもか。奇遇だね。今日から?」
「音楽部はいつまでですか?」
「明日までだけど。俺は今日だけ泊まり。人数多いとさ、いろいろとね」
ツヤさんがロボコン班の班長に呼ばれて席を外した。途端、篠原が堰を切ったように話し始めた。
「あのさ、実はさ、階段なんだけど、夜中になると昇り降りする音が続いてるらしいんだ」
由良姫の顔が一瞬にして強張る。
「君たちって、そういうのって得意分野だよね」
「全然違いますっ!!」
由良姫は即答したが、それを宇羅彦が静かに止めた。
「由良姫、よく見ろ。影が多い。モドキがたまってきてる」
「ウソ。そこまで臭わんよ」
「気配や」
「ウーちゃんが言うなら、間違いないな」
「ここは場所も悪いんや。前から感じとった」
宇羅彦が意味深に由良姫を見つめる。篠さんが深くため息をつく。
「そうなんだよね。ここ、絶対何かあるよね。だから俺は、泊まるのは一日が限界」
「し、篠さん。それって、マジ?」
「由良姫、空気が濁ってへんか? いつもの学校よりか。多分、篠さんはそれを言うてるんとちゃうか」
篠原は宇羅彦と目を合わせてニヤッと笑った。自販機で二人分コーヒーを買って戻ってくると、由良姫と宇羅彦へ渡した。
周囲に音楽部員がいないのを確認すると、篠原は声を落とした。
「実はさ、年々、重くなってきてるんだよね。去年卒業した連中まではレジェンドなんだよ。それから、全国行けてないんだ」
「へえ。じゃあ、玄関入ったとこに飾ってあるのって、過去の栄光?」
「まあね。でさ、今の二年、三年はめっちゃ焦ってるわけ。どんどん規則で絞めつけ始めてて、冗談一つ言えやしない。息がつまっちゃってさ」
「ふうん。で、篠さんはうちらに何してほしいん?」
由良姫が篠原をのぞきこむ。宇羅彦は一口コーヒーを飲む。
「そうやなあ。だって、これ絶対賄賂やろ」
宇羅彦の言葉に、篠原はハハハ……と、いつもの笑い方をした。
「実はさ、今夜ここの巡回押しつけられちゃって。そのために一日長く居させられてる。それに付き合ってくれない?」
「なんで?」
「嫌な予感がするんだ。俺のそういうのって結構当たるんだよね」
「それって、階段の足音確認?」
「うん、まあ。なんかさ、合宿始まって二日目あたりからずっと聞こえてるらしいんだ。だからもう、女子の間で、首切り神社から始まって七不思議まで全部出尽くしてる」
篠原は笑い飛ばしながら、由良姫の方を チラッと見た。由良姫もガン見してきている。
「その話って、篠さんの時代からあるやつ?」
「夜中に階段昇り降りするの以外は全部あったよ」
「じゃあ、今夜の見回りって、階段昇り降りするやつでしょ?」
「何? 由良姫さんはそういうの、ダメなの?」
由良姫は泣きそうな顔をしながら、篠原へ猛アピールした。すると、音楽部の女子がゾロゾロやって来て、奥の多目的室へと移っていった。
「はあ……信じられる? 朝九時から夕方六時まで練習して、まだこれから消灯の九時までミーティングするんだぜ。男子はここへ来るな。女子はパートに分かれてやるって言ってたっけ」
「俺たちもそろそろ行きます。まだ風呂入ってないんで」
篠さんは手を振って、別れるとそのままやってきた音楽部の男子部員に混じっていった。
ミーティングと一言で表すには、音楽部の女子たちのそれは、まるで吊るし上げに近い反省会だった。
それこそ、こんなことを繰り返していたら、負の無限ループにどっぷり浸かっているようなものだった。
それを男子部員たちもわかっていた。特に部長は、もはや成す術がないとでも言うような面持ちだった。
「比べなくてもいいんじゃない?」
「そうなんですけど。二年の女子の間で、今年こそ金賞取るって、かなりヤバくなってて。今のリーダーは賞のためならなんでもやれって感じで。一年からは、文化祭にも参加できないって文句が出てて」
「県高祭の日曜に、コンクールの地方予選があるんです。そこ突破できなかったら全国どころじゃないんで」
コンクールまでもう一ヶ月を切っていた。そして今になって、こんなつもりではなかったと、エンジョイ派の一年生が続々と辞め始めていた。
ロボコン班は九時まで、多目的ホールでロボットの試行を繰り返していた。ツヤさんも一緒に様子を見ていた。
隣の多目的ルームからは、女性の叱責する声が聞こえてきた。すすり泣く声まで聞こえてくる。
由良姫は眉をしかめた。どんどん嫌なものが溜まり始めているようだった。
夜九時になった。ロボコン班は翌日も使うので、ほぼそのままにしてサッサと洗面へと向かった。由良姫も宇羅彦と一緒に部屋へ帰った。
しかし、消灯が過ぎても、多目的ルームの灯りはなかなか消えなかった。
その日、一年生の女子が「どうしてもやめたい」と言って話し合いになっていた。
彼女は隣に二年生のパートリーダーとさらにリーダーにも囲まれ、三年生とOGまで残っていた。
ぐるりと先輩たちに囲まれて逃げ場はもうなかった。
「夏休み明けはもうコンクール予選だから。ここまで頑張ってきたんだし、もったいないよ」
「でも、本当に成績下がってしまって勉強ついていけなくて困ってるんです」
「だからこそ、私たちが協力してあげるって言ってるじゃない」
「三年まで続けたら内申に音楽部のこと書いてもらえるのよ」
「でも、もう限界なんです。練習してるだけで吐き気がするんです」
「合宿中だから、ちょっと慣れない環境で参ってるだけだって」
「とにかく頑張ろうよ。パートもすっごく上手に歌えてるよ」
何人もいるのに、誰一人として一年生の話など聞いていなかった。
今また一人辞められては困る。そこにいる先輩女子たちの頭の中には、どうやって部活を続けさせるかしかなかった。
「本当にやめさせて下さい」
「ゆっくり一晩考えてみよっか」
「そうね、辞めるのはいつでもできるから。落ち着いて答え出そうよ」
OGが時間を気にしながら、一年生への説得を締めにかかる。
結局一年生は、今日の相談もうやむやにされて終わってしまった。
明日もまた朝から音楽部の練習が始まる。
彼女は本当にずっと吐き気がしていた。自分の中の鬱屈したものが、もう喉元まで来ていた。
その晩、深夜零時。由良姫と宇羅彦は、合宿所の玄関で篠原と落ち合った。玄関を入ってすぐ、食堂の横にある階段。そこが問題の階段だった。
ペタン、ペタン。ペタン、ペタン。間もなくすると、足音がし始めた。
それはホールのようになった玄関と階段の天井に響き渡っていた。
足音はある階に止まると、ペタン、ペタンと廊下を歩いた。
何度も嗚咽が聞こえてくる。それと同時にブツブツと声にならない呟きが聞こえてきた。
それを何度も繰り返す影が、月明かりの中にぼうっと見えた。
手も足もある。けれど窓からの月明かりの中の、その姿はどこか虚ろで生気が感じられなかった。
生きた人間のものには思えないほどだった。
「言わなくちゃ……やめさせて下さい」
その人影は同じ文句を繰り返しながら、階段を行ったり来たりしていた。
徘徊しながらその影は、何度も同じ部屋の前で止まった。そして、大量のモドキを吐いていた。
モドキは廊下からスルスルと部屋の中へ吸い込まれていく。その部屋には誰がいるのか見当もつかないが、とめどなく溢れてくるモドキは、そこを目指していた。
「幽霊の正体は女子部員でしたね」
待ち合わせ場所では少し震えていた由良姫だったが、見えたものがモドキだとわかった途端平気な顔をしていた。
階段の上部に明かり取りの窓がある。
徘徊していた一年生が部屋へ戻ろうと階段を上がっていた。
ペタン、ペタン。その姿を見た篠原は固唾を呑んだ。
「アレはなに!?」
「アレはまだ途中」
「放っといて大丈夫なの?」
彼女は山ほどのモドキを引き連れながら階段を上がっていった。
そうやって、彼女はゆらゆらと半ば幽霊のように、階段を昇ったり降りたりしながらモドキを撒き散らかしていた。
「まだ幽霊の方がマシやな」
宇羅彦がボソッと吐き捨てた。
あの一年生は、相当溜め込んでしまったのだろう。
逃げようのない合宿所の中で、何度訴えても聞き入れてもらえなかった言葉を繰り返している。
「やめさせて下さい……」
その言葉とともに、自分を追い詰めた者たちの部屋へモドキを運び続けていた。
「由良。アレだけやない。よう見んといかん」
「どういうこと?」
「モドキ連れて歩いとるんやない。初めから、モドキは流れていっとる」
また同じ階で止まり、廊下を歩き、同じ部屋の前で止まる。
ペタン、ペタン。足音だけが、妙に響く。
「もう、無理なんです……」
体を折り、げえげえと大量のモドキが口元から吐き出され、ドアの前に落ちた瞬間、隙間から部屋の中へと吸い込まれていく。
ペタン、ペタン。廊下を戻ってくる。
ペタン、ペタン。階段を降りてくる。
その時の彼女の目からは、もう正気が薄れていた。
まだなんとか人である姿を保つ、最後の一皮が残っていた。
「ウーちゃん、どうする?」
由良姫は、半ば術を繰り出そうとしていた。
「ちょっと待て」
由良姫の構えかけた手を、宇羅彦が止めた。
「どうしたん?」
「まだや」
「ほんでも、このままやと」
「わかっとる。でも、まだや。蝕はまだやった。魂はまだ傷ついてへん」
その一年生は、ふっと廊下を曲がり自分の部屋へと戻っていった。
由良姫は止めていた息をふうっと漏らした。篠原も二人に任せた手前、成り行きを見守るしかなかった。
「これで終わりかな」
篠原が尋ねると、宇羅彦が笑った。
「だと、いいんすけどね」
しばらくすると、また部屋のドアが開く音がした。
ペタン、ペタン。
一年生が出てきて、また階段を降りていく。廊下で曲がると、どうやらまた同じ部屋へと向かっていた。
「やめさせて下さい……」
そう言いながら、彼女はまた吐き戻していた。だが、もうそれだけでは済まなかった。
ペタン、ペタン。廊下を歩く音。
ペタン、ペタン。階段を昇る音。
気がつけば、時計はもう夜中の三時を回っていた。
それでも誰も起きてこなかった。
誰も彼女の言葉を聞かなかった。
ミーティングの時と同じだった。
彼女が徘徊していたのは、いったいどれくらいだったろう。階段を昇って降りて、先輩たちの部屋を回っては、一生懸命訴えていた。
そしてやっと、一年生は自分の部屋に戻り、今度は出てこなかった。
階段から足音が消える。合宿所にやっと静けさが戻った。
「……終わった?」
篠原が、由良姫と宇羅彦を交互に見て聞いた。
「今夜は、終わりっぽい」
「そっか……」
篠原は、詰めていた息を軽くはいた。
篠原が言っていた、年々重くなっているという空気。
必ず勝たなければならない。
金賞を取らなければならない。
その中で、誰にも聞かれなかった言葉が濁りとなり、巣喰っていたモドキを育てていくのだろうか。
こうして、今夜もどこかで、眠れない夜とともに。
「まだ、幽霊の方がマシやな」
宇羅彦が、もう一度呟いた。篠原は何も答えなかった。
窓の外が、わずかに白み始めていた。
明日になれば、いやもう、朝になれば、音楽部はまた練習を始める。
あの一年生も、きっとそこにいる。まだ、人間だから。
由良姫は、誰もいなくなった階段を見上げた。
モドキの気配だけが、黒い糸を引くように残っていた。




