第九話 水泳部OB瀬名
「瀬名先輩、少しだけ……時間、もらえますか」
引退を控えた三年の女子部員が、人気のないシャワー室の前で瀬名を呼び止めた。
どこか焦った目をしている。瀬名は、その目に覚えのある色を見た気がした。
追い詰められた者の、まっすぐすぎる視線。
嫌な予感がした。
瀬名は高校生の頃、県大会では常に上位にいた。全国も狙えると言われていた。そのおかげで、県外の大学へ推薦入学が決まった。
大学生となったその夏、インカレ出場前に帰省した時、騒ぎに巻き込まれた。
やらかした、というより、ハメられた。瀬名のことを快く思わなかった者が、思いがけず地元にいた。瀬名の名は、すでに全国区になっていた。
一地方の、単なる噂。それでも噂は噂として広がる。部活の中でも、職員室でも、保護者の間でも、誰もはっきりとは言わないまま、瀬名の名前だけが濁った。
その時に瀬名を庇ったのが、水泳部顧問の女性教師だった。
おかげで、大事にはならなかった。瀬名は、そのまま大学へ戻ったが、その年のインカレは辞退する羽目になった。
それで終わったはずだった。
そこへ、他の女子生徒が二人入ってきた。彼女たちは瀬名と女子部員の様子を見ていた。
「先輩、そんな変な顔しないでよ」
「ちょっと、お喋りしたいだけだから」
二人は同時に距離を詰めた。声は甘いのに、目が笑っていない。
瀬名の背筋が、冷たくなる。
今年のインカレには、将来がかかっていた。
その間に、最初に瀬名を誘った女子部員はシャワー室から出ていった。
残ったのは二人の女子生徒だったが、瀬名は二人の顔に見覚えがなかった。二人は水泳部ではなかった。
校内では少し有名な二人だった。
放課後になると、着替えてから地元を離れる。電車に乗り、隣県の大きな街まで行く。年上の男の車に乗っているのを見た者もいる。
だからといって、誰も真正面から言ったりしない。言ったところで、自分の方が汚れるだけだと知っている。噂は立てても、はっきり言わないのが田舎の礼儀だった。
二人は、瀬名の名を知っていた。
過去に誰かが瀬名を陥れたことも、騒ぎが大きくならなかったことも、面白い話として知っていた。
だから、うまくいけば同じことができると思った。
そこで二人はシャワー室での計画を思い立ち、同じクラスの水泳部の女子に強引に持ちかけた。瀬名を誘った女子部員は、彼女たちのグループから軽いイジメに遭っていて断れなかった。
瀬名は不審に思いつつも、シャワー室で女子生徒二人からにじり寄られていた。
瀬名はこれはおかしいと、本能的に危険信号を感じていた。それはつい最近感じたヤバさだった。
そう、つい最近、水泳部顧問の女性教師から誘われ断れず会った日のことだった。あの時も、今までの彼女と違って、とにかくしつこかった。
女子生徒の声は静かだった。気味悪いくらいに。
「先輩、なんで逃げようとするの」
「好きって言ってるだけなのに」
それは、どこにでもある台詞だった。
けれど、その「だけ」の部分が、重すぎた。
女子生徒の目の焦点はどこか合っていない。何か見てはいけないものを見ている気がした。
夏なのに、冷たい汗が滴り落ちる。
その頃、ロボコン班のシミュレーション真っ盛りだった二人の元に、狐のケンが走りこんできた。二人は一瞬にして別の現実へ引き戻された。
ケンは水泳部のシャワー室へと二人を導いていった。二人は確か昼頃と聞いていた。
今はまだ十時半にしかなっていない。シャワー室には鍵がかかっていた。
中からはシャワーの音が聞こえるばかりで、他に特に何もない。
しかし、ケンが間違えるはずがない。ドアの前を前足で掘り起こす仕草をしている。
宇羅彦が鍵を取りに職員室へ走った。
由良姫は耳を澄まして、中の様子を伺うと、男の助けを求める声らしきものが聞こえて途絶えた。
瞬間、背筋をゾワゾワしたものが走った。
ケンがギャッギャッと吠えて威嚇した。間違いなく、中でケガレが生まれようとしていた。
「ウーちゃん、ケガレいてるかも!」
鍵を持って戻ってきた宇羅彦に、由良姫が叫んだ。
「由良、行くで!」
由良姫は頷く。宇羅彦がシャワー室を開けた。
少し年上の男性が倒れ込んできた。そこからもモドキが離れ、次々に奥の方へ向かっていく。
男性は這ってでも、外へ逃げようとしていた。そのまま由良姫と宇羅彦はシャワー室へ入っていった。時が迫っていた。
シャワー室の奥へ進むと、折れ曲がった一番奥に、今まさにケガレになろうとする二人の女子生徒だった姿があった。
別々だったはずの体をモドキが覆い尽くす。黒々と渦巻きながら、触手を伸ばすように大きく蠢いている。
後ろにいた女子の手は、前にいた女子の髪を掴んで離さない。前にいる女子の腕は前に伸び、その指先は細く尖っている。
腕は細く指先までが一本の骨となり、そこには鰭のような膜が生えてきていた。
顔は目が窪み頰がこけ、口が顎まで裂けていく。大きく開かれた口には魚類特有の尖って細かな歯がビッシリと並んでいた。
シャワー室いっぱいに生臭い魚が腐っていく臭いがする。
二人の体は床に折り重なり、二つの干からびた人魚が一つになったような奇妙な化け物と化していった。
二人の指だったものが、床を掻いている。
それは足を持たなかった。下半身は魚のようになり、テラテラと鱗が黒く光っていた。腕だったものが前へ前へと伸びてくる。
「離さない」
それが床を掻くたびに、排水口の蓋が微かに鳴る。口は動いていないのに、そんな響きがした。
何かを掴もうとしているのではない。逃がすまいと、絡み取ろうとしている。
シャワーの水音が止まらない。水は流れているのに、室内の空気は熱を持ち乾いていく。
女子生徒の口が、同じ角度で開いていた。言葉にならない何かを、繰り返している。執着は、声を持たない。
ケガレになる直前、気枯れてミイラになったものは、最後の執着を残していく。
由良姫と宇羅彦は、ケガレになりかけた体に向かって輪響紋の術を繰り出した。
まるで二体のミイラが手を伸ばし合っているようだ。しかし、二体は一つになっていた。その下半身で。
ミイラは半漁人のように腕が鰭になり、下半身は魚となり、干からびていく。
術を放った瞬間、二体の影が一つに寄ろうとした。
由良姫と宇羅彦はそれを見逃さなかった。昨夜と同じ、一体化しようとしていた。それも腐った魚になりかけていた。
術の光が、二体の間を断った。
次の瞬間、そこにあったものは消えた。
肉も、影も、声も。
水だけが、何もなかった床を叩いていた。
瀬名と思しき男性の意識は薄れ、失神していた。しかし彼の指は、無意識に自分の首元を掴んでいた。何かから逃れようとするかのように。
瀬名にもモドキはまとわりついていたはずだった。しかしそれは、瀬名の中へ沈むより早く、奥にいた二人へ吸い上げられるように離れていった。
今までとは違う。
由良姫も宇羅彦も見ていた。
モドキは広がるだけではない。ケガレへと変容するものへ集まっていく。
執着は、悪意とは限らない。けれど、濁りは区別しない。
絡み合うものの方へと、濁りは寄っていく。
シャワー室には、その濁った空気が残っていた。あの臭いは消えていない。
するとそこへ、髪が濡れたままの女子生徒が制服姿で現れた。
「瀬名先輩は!?」
「水泳部の人ですか?」
由良姫が聞くと、女子生徒は頷いた。
「多分その人、そこに倒れてる」
宇羅彦はそれだけ言うと、由良姫と一緒にその場を立ち去った。
ブレスレットの効果は絶大だった。静かに、石は守っていた。ケガレの発する禍々しいものを、すべて弾き返していた感覚があった。
由良姫と宇羅彦はロボコン班がいる体育館へ戻った。
体育館の床のワックスの匂いが、やけに乾いていた。
この日、瀬名は保健室で目を覚ました。
何があったのか、思い出そうにもまったく覚えていなかった。ただ、もうこの学校へ来る理由がないことだけは、妙にはっきりしていた。
その後、瀬名は大学へ戻り、二度と姿を見せることはなかった。




