22. 一つ片づけた椅子
輪投げの棒が片づけられると、椅子を引く音がよく聞こえた。
リコは入口に立ち、帰る人へ上着を渡していた。子供が自分の名札を持ち帰ってよいか尋ね、よいと聞くと胸の前へ当てた。外へ出た途端、寒さに手をポケットへ入れる。名札は大人の買物袋へ収まった。
窓際にいた、濃い緑の袖の女性は、まだ座っていた。前の皿は空で、隣には背に何も掛けられていない椅子が一つある。リコは洗う皿を運ぶついでに、その机へ行った。
「こちら、下げていいですか」
女性は頷き、匙を皿の中へ置いた。名札はまだ正面に立っていた。
リコが戻ると、女性は隣の椅子を持ち上げようとしていた。低い音がして、脚が床へ戻った。
「壁の方で、いいのかしら」
「はい。こちらに」
リコは片方の背を持った。女性と二人で壁へ運び、積まずに端へ寄せた。戻る途中、女性は窓の留め具に触れた。
「開けてもいい?」
「少しなら。そこ、風が入ります」
「少しでいいわ」
留め具を外すと、窓が手の幅ほど開いた。人の熱のこもった部屋へ冷気が流れ、机に残る名札の角が震えた。女性は一脚だけになった椅子へ座った。窓を見ていたので、リコは話しかけなかった。
台所へ皿を持っていく途中で振り向くと、女性は肩を椅子の背へ預けていた。顔の半分に、夕方へ傾いた光が当たっていた。
エダが帰ると言ったのは、それから少ししてだった。
「今なら、パン屋が閉まる前に寄れる」
手には前掛けと、自分で畳んだ布がある。残る鍋を見ていないことが、リコには少し意外だった。
「帰りのパンですか」
「明日の分。今日たくさん食べても、明日はまた食べるでしょう」
「そうですね。私も、買っておこうかな」
「あなたたちは、まだ片づけがあるのね」
リコはナギを探した。折り畳んだ見本の前で、彼は集会所の世話役と話していた。リコが近づくと、見本用の留め具の袋をボンゴへ返すところだった。
「エダさん、帰るって。私は途中まで歩いてくる」
ナギは床に残った枠を見た。あとは普通の机と椅子を戻すだけだった。ピッパが食器の返却先を示し、世話役はそれを自分の控えと合わせている。
「僕も行く。今、交替の人へ渡した」
「箱は?」
「ボンゴさんが明日の便で持ち帰る。ここで預けるところまで、もう見てもらった」
ボンゴは畳んだ包みの紐を持ち上げた。朝は自分が箱の一部に見えていた人が、今は一つの包みを脇に抱えている。彼は何か口上を言いかけたが、エダを見つけると、いい料理だった、と言った。
「あなたの箱も、よく片づいたわね」
「そこまで見てもらえれば、本望だ」
ピッパは二人の帰りが暗くなりすぎないかを確かめ、戸を閉めるのは世話役と自分で受け持つと答えた。リコは頷いた。空いた鍋をもう一度数える代わりに、自分の青い鞄を椅子の下から出した。
台所の交替当番が、エダへ小さな紙を持ってきた。前掛けの紐をほどいたばかりで、指がまだ結ぶ形をしている。
「今日の豆の分量を、もう一度聞いておこうと思って。今度、自分で作るから」
エダは紙を受け取った。鍋の脇の覚え書きを見て、必要なところだけを書き足す。
「あの鍋いっぱいには、作らないでしょう」
「まさか。家の小さい鍋よ」
「じゃあ、同じだけ入れたら、鍋から出てくるわ」
エダは相手の普段の鍋の大きさを手で示してもらい、紙の端を折った。ここからは自分で試した分を書けばいいと言う。女性はその折り目を指でなぞり、今度も手伝ってくれる、と尋ねた。
「食べる方なら。何日なの?」
「まだ決めてないけど」
「決まったら、教えて。行けるかどうか、返事をするから」
女性は頷いて紙をしまった。誰かが台所から名を呼ぶ。彼女は次は自分が鍋を持っていく番だと言って戻った。
リコはエダの前掛けの端が床に触れそうなのを見つけ、声を掛けた。エダは畳み直し、布の包みの中へ押し込んだ。
「何も入ってないつもりでも、帰りはかさばるのね」
「小さい箱、借りますか」
「あれは、札でいっぱいでしょう」
二人で見本の方を見た。ボンゴはもう箱を閉じ終え、明日の運ぶ向きを世話役へ伝えていた。エダは包みをひと結びし、これで大丈夫と胸に抱いた。
リコは台所へ挨拶をした。今度は鍋の蓋が応える音ではなく、何人かの声が返ってきた。入口に掛けた今日の案内を、ピッパが外しはじめている。リコはその端を一緒に持ち、折るところだけ手伝ってから離した。
セリは入口で上着を着ていた。自分の名札を買物袋の内側へ入れ、耳に掛けていた髪を襟の上へ払っている。
「もう帰るんですか」
リコの言葉に、セリがこちらを見た。引き留める調子になっていたかもしれない。リコは続けた。
「私たちも、少し歩いてきます」
「じゃあ、ここで。楽しかったわ」
「はい」
何が、と付け足す必要はなかった。
セリはエダへ料理の礼を言った。エダが台所の女性たちも呼び、短い挨拶の輪ができた。誰かが帰りに寄る店の話をし、閉店の時刻が出ると、皆の動きが急に早くなった。
濃い緑の袖の女性も、窓を閉めて立ち上がっていた。椅子はその場へ戻したままで、上着を腕に掛けている。リコは入口の方へ身体を寄せ、通る場所を空けた。
女性は出る時、一度だけ、ありがとうと言った。
リコはその顔へ返事をした。
*
集会所を出ると、音が一枚減ったようだった。
戸の向こうでは椅子が動いている。こちらには足音と、坂の下を走る手車の車輪の音があった。エダは布の包みを持ち直し、かまどの煙の立つ方へ歩き出した。
リコは荷物を持つか尋ねたが、エダはこのくらいならと答えた。坂を下りる時だけ、ナギが先へ出て、凍っていない道を確かめた。エダはそれを見て、朝もそっちを通ったの、と教えた。
「私だけ道を知らないみたい」
リコが言うと、二人とも少し笑った。
「昨日は、配達で反対から戻ったから」
ナギが答えた。セリの箱を届けて帰った道は、ここから一筋向こうだった。昨日は店に焼き菓子が二つ残っていて、それを二人で食べた。今日は台車を置くところを探さずに、戸口へ近づけた。
店の前には、小さな籠が一つ残っていた。エダが二つ頼むと、店の女性が薄い紙に包んだ。リコも宿へ戻ってから食べる分を頼んだが、ナギに見られた。
「夕食もあるよ」
「朝の分」
「さっき、戻ってからって」
「朝までに戻るから」
エダは口元を隠さず笑った。店の女性も、なら小さい方でよいかと聞く。リコは迷い、結局、普通の大きさを頼んだ。
店を出たところで、エダは自分の包みを鞄へ入れた。
「ここまででいいわ。次の角で、いつもの道へ出るから」
リコは坂の先を見た。雲はまだ明るく、家の屋根に細い煙が上がっている。エダの言ういつもの道を、二人も知っていた。
「また、配達で」
「ええ。食べていける日は、先に教えてちょうだい」
「はい」
ナギも挨拶し、エダは手を一度上げた。布の包みを揺らさず、次の角を曲がる。リコは姿が消えてからも少しその方を見ていた。
「全部、終わる前だったね」
リコが言った。
「会?」
「うん。最初は最後までいてもらって、お礼を言うつもりだった」
ナギはしばらく返事をしなかった。通りの向こうから手車が来て、二人は脇へ寄る。空の木箱が揺れ、軽い音を立てて通り過ぎた。
「もう、言えた」
「そうだね」
エダはパン屋に間に合った。リコの包みはまだ少し温かく、鞄へ押し込めば形が変わりそうだったので、手で持った。
港へ戻る道は、集会所へ寄るより少し遠回りだった。ナギは途中の道標のところで、そちらを示した。
「今日はもう、戻らなくていいって聞いてきた」
「私、鞄を取りに戻るつもりでいた」
「持ってるよ」
リコは肩紐を見下ろした。本当に持っていた。片手が空いているだけで、何も持っていないつもりになっていたらしい。もう片方には、パンまである。
「することがなくなるの、下手だね」
「僕も、明日の点検を今から考えてた」
「明日、やる?」
「明日」
ナギは手をポケットへ入れた。スカーフの端が上着の前から少しだけ出ていて、歩くたびに動いた。リコはその横を歩いた。踊った時の距離ほど近くはなかったが、離れた席から声を張る必要もなかった。
坂の上で、コムギ棚の段々畑が見えた。冬の畝は低く、畑の端に束ねた茎が置かれている。向こうの雲海には夕日が入り、凹んだところだけ青い色を残していた。ツバメ号の橙の帆は、港で小さく畳まれていた。
リコは手すりの手前で足を止めた。今日、飛ぶ用事はない。到着時刻を確かめずに帆を見るのは、久しぶりだった。
「百年ぶんって、名前をつけた時は、もっと大きいことをすると思ってた」
「二十四人、食べた」
「大きいね、それは」
「僕は、おかわりも」
リコは笑ったあと、息を吐いた。誰が何年分を祝えたか、数える方法はない。昨日の箱の蓋も、窓際の女性が戻した椅子も、今のリコの手から離れていた。指に残った包み紙の折り目を、一度だけ伸ばした。
「楽しかった」
「うん」
ナギの返事は、彼自身が楽しかったという音に聞こえた。
宿の入口には、二人宛ての伝言が預けてあった。集会所からの短い知らせで、返却品を確かめ、施錠したことが書かれている。ピッパの字だった。明朝、控えを現地の受付で渡す、と続いていた。
リコは受け取った印を付け、夕食の時刻を聞いた。まだ少し間がある。ナギは先に港の宿泊者用の洗い場へ寄り、リコも部屋で上着を脱いだ。
机に置いたパンは、もう熱くなかった。
包みを開きかけて、リコは手を止めた。廊下の向こうへ声を掛ける。
「ナギ。今、半分だけ食べる?」
少しして、扉の外から返事が来た。
「夕食もあるよ」
「分かってる。半分を、二人で」
「それなら」
リコは包みを持って共用の食卓へ出た。窓際に二脚、空いていた。椅子を一つ引き、もう一つは、彼の来る方へ少し向けておいた。




