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20. 生まれた日ではなくても

「今日は、来てくださってありがとうございます」


 言い終わる前に、鍋の蓋が鳴った。エダが持ち上げた蓋を、交替の女性が受け取った音だった。リコは笑いそうになり、一度だけ唇を結んだ。


「料理が冷める前に、始めます」


 拍手より先に、いただきますという声が上がった。

 二十四人分の皿は、台所の当番も含めて用意してあった。入口の机へ最後の印を付けたピッパが、紙を閉じて席へ向かう。リコも名札の置かれた椅子に座った。座って初めて、自分の手が冷えているのに気づいた。セリの言ったとおりだった。


「肩掛け」


 隣へ来たナギが、椅子の背から橙色の布を取って渡した。リコは礼を言って肩へ掛け、熱い皿が来るのを待った。手伝う人が立ったまま食べないよう、煮込みを配る順は当番が変わる時刻に合わせてある。


 豆と根菜の煮込みが、深い皿の底を覆った。大きな豆の脇に、崩れかけの白い根菜と、赤みのある小さな切片が見える。リコは匙の背へ少し取り、息を吹いた。窓から来た光が、湯気の向こうでゆっくり揺れた。


「パン、取りますか」


 向かいの席の男性が籠を持ち上げた。名札の文字を読んで、リコは名前を呼んで頼んだ。入口で職場の名を書くか迷っていた、胸に鉛筆を二本差した人だった。


「端のところを、お願いします」

「端が好きなんですか」

「今日は。汁に浸したいから」

「真ん中も浸せますよ」

「浸すまでに、食べちゃうので」


 男性は笑って、厚い端を一つ渡した。自分の皿には真ん中を取った。焼き色の薄い面を、しばらく見ている。


「倉庫の仕事、もう始まったんですね」


 リコが聞くと、彼は指先の粉を見た。


「粉の袋から運び始めました。今朝は休みなんですけど、上着から落ちるんですね」


 隣の小柄な女性が、さっきから同じことを言っていると笑った。


「慣れる前にお祝いをしたら、すぐ辞められないと思って」


 男性が言うと、ボンゴが向こうの席から顔を上げた。


「祝いをしても辞められるぞ。次を始める時にも、食べればいい」

「じゃあ、今日の分は遠慮なく」


 男性はパンをちぎった。リコも煮込みへ端を浸した。ふやける前に口へ運ぶと、外側の薄い皮だけが歯に残り、中から熱い汁が出てきた。


 セリの前には、皿がまだなかった。台所から運ぶ女性が、足りないかと眉を上げる。


「ここです。セリさんの分、お願いします」


 リコが手を上げた。

 セリは買物袋から小さな布を出し、膝に広げた。皿を置いてもらってから、今度は自分で名を言った。


「セリです。奥に座ったから、見えなかったのね」

「セリさん。おかわりも同じ声で呼んでね」


 女性は鍋へ戻った。隣の席からパンが渡り、セリは一つ受け取って、その先へ籠を送る。リコの手には、もう何も渡すものがなかった。


「今日は何を祝うんですか」


 小柄な女性が、豆を匙に載せて尋ねた。

 セリはパンを割ってから答えた。


「ここへ食べに来られたこと、かしら。昨日、今日の用事を片づけておいたので」

「それはいいわね。私は、明日の用事をまだ何もやってない」

「じゃあ今日は、よく食べておかないと」


 二人は明日の市場の話を始めた。会で誰かに尋ねられたら、とリコが何度も考えていた古い箱は、会話に一度も出なかった。彼女は二口目を食べた。温かいものを口に入れていると、話す隙を探さなくても、そこに座っていられた。


 窓際では子供が匙を並べて、今日が誕生日かどうか数えていた。本人の誕生日ではなかったらしい。隣の大人が、でも大きくなったでしょう、と言う。子供は椅子から降り、背を比べる場所を探した。


「食べ終わってから」


 大人が言うと、子供は戻ってきた。少し不満そうにパンへかじりつき、もう一人の子供に、昨日よりは伸びていない、と真顔で言った。

 ナギが噴き出しかけ、匙を皿へ戻した。


「毎日測ると、測り方の違いの方が」

「今、説明する?」


 リコに聞かれて、彼は首を振った。


「食べてからにする」

「待ってたら、忘れてくれるかも」


 隣で彼が笑った。前の旅で借りた舞踏会の服とは違う、いつもの藍の作業着だった。袖は折ってあり、膝には名札と同じくらい小さな木片が落ちていた。ナギは気づくとそれを拾ってポケットへ入れ、その手でパンを取る前に布で指を拭いた。


     *


 エダは、煮込みの最後の鍋を交替の女性へ渡した。


「底だけ時々、見てちょうだい。あと、あの子には根菜を小さく」

「聞いてあるよ。あなたの席へも、もう運んだ」


 前掛けを外すと、腹の辺りが急に涼しくなった。エダはいつもここで、もう一つだけ、と火のそばに残る。今日は二人で決めた時刻が来ていて、相手は鍋の柄を握ったまま、こちらが次の用事を思いつくのを待っていた。


「あの籠の……」

「パンも切った」

「そう」


 エダは口を閉じた。役目を取り上げられたようで少し腹が立ち、そうしてくれと頼んだのは自分だったことを思い出した。女性が鍋へ匙を差すのを一度見て、エダは自分の名札のある席へ行った。


 少し離れた机で、リコが何かを説明しようと立ちかけていた。新しい仕事を始めた男性が、皿の底の根菜を指している。苦手なものだったか。エダは引き返しかけたが、リコは台所の方へ一度声を掛け、戻ってきた返事を男性へ伝えた。塩を足す瓶の場所を聞かれただけだった。瓶が隣から渡ったので、リコもすぐに座った。

 エダは自分の皿を引き寄せた。


 同じ鍋で作ったものなのに、座って食べると少し甘かった。味見の時には数えた豆も、今は匙へ載るだけをすくえばいい。向かいの人が、今日は外で食べたかったのよと話しかける。エダは、私は作ったものを座って食べたかったの、と答えた。


「いつも立ってるの?」

「いいえ。立ったり、歩いたり」


 向かいの人は、なかなか座らない答えね、と笑った。

 古い飛行帽は家にある。ここには持ってこなかった。エダは窓の外で明るくなる雲を見てから、自分の皿に戻った。家までの道を暗くなる前に歩くつもりでいたが、今すぐ帰りたいわけではなかった。


「焼きリンゴがあるでしょう」


 向かいの人が、小さな声で尋ねた。


「あるわよ」

「皮の端、焦げたところが好きなの」


 エダにも好きなところだった。二人で台所の方を見た。見張るようになった目が合って、どちらからともなく笑った。


挿絵(By みてみん)



     *


 リコがおかわりを頼んだ時には、鍋のそばにエダはいなかった。

 大きな匙を持った別の女性が、同じくらいでいいかと聞く。少し多めに、と言うと、皿の真ん中へ豆が一つ増えた。


「ほんとうに少し」

「焼きリンゴが来るからね」


 リコはそれ以上求めず、席へ戻った。名札の間に置かれたパン籠には、もう二切れしか残っていない。ナギは手を出していなかった。


「食べないの?」

「まだ欲しい人がいるか見てた」


 リコは机の端まで見渡した。セリが小さく手を振り、もう十分だと教えてくれる。男性も首を振った。リコは一切れを取り、残りをナギへ渡した。


「半分にする必要、ないね」

「今日は」


 彼は受け取って、そのまま一口かじった。

 食べる速さが机ごとに違い、話す声の大きさも違った。前へ出て何かを発表する時間は、まだ来なかった。リコは進行の紙を一度だけ確かめたが、時計を見て顔を上げたピッパが、頷いてくれた。食べ終えるための余裕を取ってあった。


 ボンゴの名札には、いつの間にかパンのかけらが引っ掛かっていた。本人は大きな身振りで、見本箱の留め方を向かいの人へ話している。リコが指差すと、彼は胸を張った。


「いい札だろう。短い」

「そこ、パンが」


 職人は名札を裏返し、こぼれたパンを手で受けた。


「収納もできる」


 ピッパは自分の皿を引き寄せたまま、聞かなかったことにした。


 焼きリンゴは、大きな丸のままではなく、人数に合わせて切ってあった。香りが来ると、さっきまで煮込みで満ちていた腹に、別の空きができる。リコは皮の端を匙で切った。とろりとした果肉が崩れ、焦げ目のそばから酸味が広がった。

 エダと向かいの人が、お互いの皿を見て笑っている。何かうまく分けられたらしい。リコは聞きに行かず、自分の一切れを食べた。


 窓際の子供が、食べ終えた皿を重ねようとした。下の皿が斜めになり、大人が底を押さえる。すぐに取り上げず、一枚ずつ台へ置くところを教えていた。リコの席からは顔が見えなくて、二人の手だけが小さく動いた。

 向かいの男性は胸から鉛筆を抜き、紙を出しかけていた。


「忘れないうちに、明日の積み方を」


 隣の女性が彼を見る。男性は紙を裏返した。


「書くだけ。今から倉庫へ行くつもりじゃないよ」

「それは聞いてないわ」


 ナギが自分のポケットへ触れ、何も取り出さずに手を戻した。リコはそれを見ていたが、言わなかった。男性は積む順を三行だけ書くと紙を畳み、鉛筆も胸へ返した。


「それで、さっきの話の続き。昔の食堂って、朝は何時からだったんですか」


 エダは少し遠い席から、早かったわよ、と答えた。


「私は寝ているところを起こされるのが嫌いだから、先に起きていたの」

「商売のためじゃなくて?」

「商売のためにもなったわね」


 その先は、雨の朝に客が同じ場所へ傘を置いてしまい、帰りに持ち主が分からなくなった話だった。エダは自分の失敗も混ぜて話した。煮込みの鍋より大きくなりそうな話に、隣の席からも椅子の向きが変わった。

 セリが手を上げた。


「すみません、もう少しお水を」


 名を聞いていた女性が水差しを運び、そのまま隣の席へ座った。ここからは次の当番だった。空いた椅子へ腰を下ろす人が増えるにつれて、鍋の音が減り、食卓の声がよく聞こえるようになった。


「何の会だったか、忘れそう」


 リコが言うと、セリは焼きリンゴの皿を見た。


「何か言わなきゃいけなかった?」

「ううん。私が、始める前にいろいろ考えてたから」

「じゃあ、忘れないうちに食べた方がいいわ。冷めると、今の味じゃなくなる」


 リコは匙を取った。ナギが隣で、最後のパンを果汁に浸していた。それを見て、しまった、と声が出る。

 彼は残った半分を持ち上げた。


「いる?」

「うん」


 今度は半分にする理由があった。リコは渡されたパンで皿の底を拭い、甘いところを、端まで食べた。


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