19. 名前を呼ぶ練習
朝の集会所には、まだ鍋の音しかなかった。リコが戸を押すと、床を拭いたばかりの冷たい匂いに、焼きはじめたパンの匂いが重なった。橙の肩掛けを外す前に、奥からエダの声が飛んできた。
「そこの籠は、まだよ。上に掛けた布が取れたら食べていい」
「運ぶ方です」
「そういうことにしておきましょう」
リコは籠を両手で抱えた。重かった。見た目だけで焼き上がりを期待した自分の腹が、一度鳴った。
入口の机では、ピッパが紙の角をそろえていた。すもも色のベストに朝の便の冷気が残り、丸眼鏡の下には、港で結び直したらしい細い紐が見える。通常便でミナト輪から来たばかりなのに、机の上はもう彼女が何日も使っていたようだった。
「上着、預かるよ」
「ありがとうございます。名札のあとに脱ぐ予定でした」
「順番を一個、前へ」
ピッパはリコを見て、外した外套を渡した。
壁際に畳みかけの見本箱が並んでいた。ボンゴは箱の陰で何かを結び、ナギはその向かいで青い留め具を数えている。昨日まで叔母宛ての木箱を積んでいたツバメ号は、今朝は港の係留場に置いてきた。セリの箱は、本人の家にある。リコの青い鞄には、その受領の控えと、今日使う進行の紙だけが入っていた。
パンの籠を渡して戻ると、ピッパが一枚の札を持っていた。
「この方の読み、こちらの申込では家名の前に点があるんですが」
紙の下には、古い品の照会先を確かめた一覧があった。出席の紙を受領の控えから抜く時に、一枚ついてきたらしい。リコは札に書かれた古い家名を見て、昨日玄関で顔を合わせた人とは違う名だと気づいた。
「これは品の方。会の方は、相談の日に皆さんが書いた札があるよ」
ピッパはすぐにその一枚を伏せ、照会の封筒へ戻した。それから、準備していた名札の束を眺めた。
「出席の確認は、予約の名前でできます。大きさをそろえて清書するつもりでしたが、前の札もそのまま使えますね」
「新しい札がいい人には、自分で書いてもらおう。呼んでほしい名前を」
「書くのが難しい方は、聞いてこちらで」
大きな束が、入口で使う小さな一覧と、何も書いていない札とに分かれた。ピッパが白札を並べる間、リコは進行の紙を広げた。裏側には、会を思いついた時に書いた一文が残っていた。
長く待った品を受け取る皆さんへ。
会の相談の日にやめた案だった。リコは使わない面へ大きく線を引き、紙を返した。今から読む挨拶は、反対の面に二行。書き直した時から、ずいぶん短いと思っていた。
「これだけで、始めていいかな」
ピッパは紙を受け取り、目を動かした。
「料理が温かいうちに始められます」
「食べる前提の点検だ」
「重要な前提です」
ボンゴが名札を取りに来たのは、その時だった。
「見本にも、名前が必要だと思うんだ」
「本人が書く方式になりました」
ピッパの答えに、職人は大きな箱を振り返った。濃い茶色の巻き毛が、今朝は額からきれいに払われている。
「箱は書けない」
「では、作った方が」
ボンゴは白札を五枚持ち去り、腕の太さほどの筆で、まず「箱様」と書いた。次が「大きい箱様」。三枚目には「もう少し大きい箱様」と書き、字が枠からはみ出したところで、小さく「の見本」と足した。
リコは椅子を動かす手を止めた。
「大きさで呼ぶなら、大きい順に出してね」
「いや、小さいものにも晴れ舞台はいる。最初がいちばん大きいと思ったら、実は最後が」
「それ、本番に残してください」
ピッパが筆を渡した。
五枚目を書き終えた頃、入口へ運ぶ札入れが空になった。ピッパは予備の紙から一枚切り、職人を見た。
「ボンゴさんは」
「ここにいる」
「名札です」
ボンゴは自分の胸を見下ろし、次に箱を見た。五つの見本が、彼より先に名乗っていた。
「私は、箱の後でも」
「料理の皿まで箱へ渡ってしまいます」
リコは笑いながら、最後の一枚へ「ボンゴ」と書いた。彼は札を受け取ると、裏返し、何も書いていない面を確かめた。
「肩書きは、入らないか」
「おかわりの時に困らない長さで」
そう答えたナギの手から、青い留め具が一つ滑った。床へ落ちる前にボンゴが受け止める。名札の一件で笑っていたリコは、その速さに口を閉じた。職人は留め具を台へ戻し、指先で向きをそろえた。
「本番の札は、もう中へ入れた。畳む時に邪魔にならない」
「順番は?」
「完璧だ」
ピッパが少しだけ眼鏡を上げたが、箱は開けなかった。
戸が二度鳴った。開会よりずいぶん早い。
リコが迎えると、薄茶の上着を着た成人の女性が、鉢を抱えて立っていた。料理当番の一人で、予約の時に会った人だ。今日は髪を布でまとめ、耳の脇に小さな後れ毛を残していた。
「これ、台所へ置いていいかしら」
「はい。名札も、ここで書けます」
女性は鉢を置いて手を拭き、鉛筆を取った。短い名を書いたあとに、口元を少し曲げた。
「子供の頃の呼ばれ方で書いちゃった」
「直しますか」
「ううん。この町じゃ、まだそっちが多いから」
リコは書かれた読み方を確かめた。女性は、一つ目の音を少し強く言った。真似すると笑われた。間違えたのかとリコが顔を上げる。
「そんなに張らなくていいの。隣へパンを頼むくらいで」
もう一度言ってみた。今度は頷いてもらえた。
女性が台所へ入ると、リコは進行の紙の裏へ、その読み方だけ小さく書いた。本人の話すことまで埋めたくなる白い場所が、紙の半分以上残っていた。
窓から光が入る頃には、鍋の蓋が次々と上がった。今日の予約に合わせた皿がそろい、当番の分も数えられた。子供の椅子を動かそうとすると、集会所の世話役が、背の低いものはこの机へと教えてくれる。リコ一人では、どれがいつも使われている椅子なのか分からなかった。
ピッパは入口へ戻り、札を書く場所をもう少し広げた。
「待つ人が、次の人の文字を覗き込む形になっていました」
リコは鉛筆の籠を端へ寄せた。名前を置く机が、荷物を受け取る窓口とは違う形になっていく。
セリが来た時、リコは手にした椅子を壁際へ運んでいるところだった。くすんだ赤の上着から、昨日と同じ買物袋が下がっていたが、今日はそれほど膨らんでいない。黒髪を片耳に掛け、白札の前で止まった。
「ここに、名前を?」
「はい。席へ持っていくものです」
セリは鉛筆を取り、自分で名を書いた。ゆっくりでも、ためらっているわけでもない。リコは窓際と奥の机を指して、どちらでも席を選べると伝えた。
「上着を脱ぎたいから、奥へ行くわ。戸が開くと寒そう」
「荷物はそこの棚に置けます」
箱は開けたかと、尋ねるほどの隙間はなかった。セリは自分の名札を持ち、入口で料理当番と二言話すと、奥の席へ進んだ。肩掛けの外れたリコの腕を見て、寒くないの、と聞く。
「今は、すごく働いてるので」
「じゃあ座る時、忘れないで」
セリは椅子の背へ自分の上着を掛けた。その前へ名札を置き、文字の面を向かいの席へ向けた。
入口の音が増えてきた。子供が自分の札を頭の上へ載せ、大人に落とさないでと言われる。ピッパが思わず留め紐を探し、探してから手を止めた。札はすぐに本人の手へ戻った。
続いて入ってきた若い男性は、会の相談の日に、新しい仕事が決まったと話していた人だった。上着の前を留めたまま白札を眺め、胸ポケットに鉛筆が二本差してあるのに、机の鉛筆を手に取る。指の腹に白い粉が付いていた。
「祝いの言葉も、ここへ書くんですか」
「名前だけで大丈夫です。ほかは、食べながらでも」
「じゃあ、それは後で」
彼が札を書き終えるのを待っていた小柄な女性が、隣からのぞいた。
「新しい職場の名は?」
「まだ三日しか行ってないから」
「だから言っておけばいいのに」
男性は返事をせず、鉛筆の粉を指で払った。リコは札を立てる小さな折り目を示し、それから空いている席を案内した。二人は歩きながら、明日の出勤が何時かという話を続けていた。
ピッパは予約の一覧へ印を付け、鉛筆を置いた。
「その鉛筆、もらえますか」
リコが言うと、ピッパは先の尖った方を自分へ向けて渡した。リコは自分の札へ、いつもの字で名前を書いた。隣にナギの白札も置いたが、名前を書くところで手を止める。
「ナギ、自分の分」
呼ばれた彼は道具袋から手を離し、台の脇へ来た。白札に顔を近づけ、少し左へ寄せて名前を書く。
「右が余ったよ」
「真ん中に書くの、苦手なんだ」
「道具の札は、ぴったりなのに」
「あれは、先に端を決める」
リコは自分の札と並べた。ナギの字は左に寄り、リコの最後の字は少し大きかった。奥の机に二つの空席があり、その間にはパン籠を置けるだけの場所があった。
「ここへ置いてくる」
「僕も、食べ始めには行ける」
リコは二枚を運んだ。仕事の荷札では二人の名が同じ欄に入ることもあるのに、食卓に並べると勝手が違った。自分の札を立ててから、ナギの札を隣へ置く。青い鞄は椅子の下へ収めた。通路側へ伸びた肩紐を引き入れると、前の席のセリがパン籠を少し遠くへ動かしてくれた。
「ここ、二人座れるわね」
「はい。あとで」
名札を置いた席を残して立ち上がると、会はもう、始める人が一人で待つものではなくなっていた。
台所から、焼きリンゴも食事に続けて出せると知らせが来た。朝のかまどの準備が早く進み、当初より前に焼き上がるという。ピッパが進行の紙をエダへ見せた。
「では、先に食べ終えてから実演へ。給仕の人も一緒に見られます」
「そっちがいいわね。手を止めて見てたら、皿が傾くもの」
ボンゴも台所へ顔を向け、私の持ち時間は、と尋ねた。ピッパは焼き上がりを待つ分だけ短くなると答えた。職人は少し残念そうに頷き、最後の札をしまった。
ナギは作業台の最後の留め具を確かめると、道具袋の口を閉じた。今日は薄黄のスカーフを作業着の中へ収めている。実演が終わるまでは、何も引っ掛けないつもりらしかった。
「読む練習、いる?」
リコの手に進行の紙が残っているのを見て、彼は尋ねた。
「名前は、本人に聞いた。挨拶は、短くなった」
「聞くよ」
リコは紙を見た。さっきまで声に出せた文が、彼が正面に立つと少し遠くなる。
「今日は、来てくださってありがとうございます。料理が冷める前に、始めます」
「うん」
「それだけ」
「後ろの鍋まで聞こえる」
台所から、聞こえましたよ、とエダが返した。
リコは紙を二つに折った。読み上げるための白い面が、手の内側に隠れた。入口にはまだ来客がいて、窓際の席から誰かが手を上げている。セリも上着を脱ぎ終え、皿を一枚、隣へ送った。
リコは椅子の間を抜けて前へ出た。箱様たちが並ぶ脇で、一度だけ息を吸った。




