18. 届いた箱を開けない夕方
コムギ棚へ着いた時、受取窓口の机には、明日の席数が置いてあった。
リコは紙を見てから、時計の包みへ目を戻した。一昨日の夕方に戻ってきた本人の返答を添え、翌朝にこの町を回る担当へ渡す。運航が戻ったから今日のうちに、と変更する理由はなかった。
担当は灰色の外套の客の控えを見つけ、朝の配達順に差し込んだ。
「在宅の時刻は、この返事のとおりですね」
「はい。着いたことも、今日のうちに知らせてもらえますか」
彼は受け取り、棚へ置く場所を示した。時計が入った包みは持ち上げられても鳴らない。今使っている時計とは別に、昔のものを鳴らさず飾りたい、という客の声を、リコは思い出した。
明朝の配達控えに受領確認を戻す欄があるのを確かめ、彼女は次の紙を出した。
セリへは、同じ町の窓口から連絡がついた。今日は夕方、家にいる。木箱を置く棚は空けてある。その返事を聞いて初めて、リコは運搬の外枠へ手を掛けた。
「行けるね」
ナギは船の補給と係留の手続きを済ませ、倉庫の外へ来ていた。
「台車、借りられた」
小さな荷を載せる台車だった。木箱だけなら二人で持てるが、夕方の道を手渡しで継ぐ必要はない。リコが持ち手の高さを合わせると、車輪が石の上で一度、軽く跳ねた。
とうとうここまで来た、と胸の中で言った。箱は何も変わらない顔で、運搬枠の中に収まっていた。
*
坂道のパン屋は、閉店の前に最後の天板を出していた。
焼けた皮の匂いが流れてくると、リコの腹が遅れて鳴った。港では急いで軽い食事を済ませたが、飛行の間、空いた感じを忘れていたのだった。
ナギが店の前で足を緩める。
「先に買う?」
「帰りに。受取の時刻、今からだし」
店の人がこちらへ顔を向けた。リコは会釈し、帰りの分が残っているかだけ聞いた。
「残ってなければ、明日の朝」
気軽な返事が返ってきた。リコも、それでお願いします、と笑った。明日の朝にできることを一つ持つだけで、足を速めずに済んだ。
セリの家の近くで、道が細くなる。台車は外で止め、二人が運搬枠の持ち手を一つずつ握った。計った幅は覚えている。それでも、戸口の前へ立つと、紙の数字より柱が近く見えた。
リコが呼びかける前に、戸が内側へ開いた。
「あ、ほんとうに今日なんですね」
セリはくすんだ赤の上着を着ていた。顎までの黒髪を片方の耳へ掛け、もう片方の手に、糸の付いた針を持っている。扉を広げようとして手元に気づき、いったん奥へ戻った。
「ちょっと置いてきます。入った所で待っていてください」
リコは箱を持ったまま足を止めた。ナギも動かない。
小さな足音が奥へ入り、また戻ってくる。セリが指先を二度見てから、戸口を広げた。
「もう大丈夫です。明日の上着の留めが取れかけていて」
受取のために何もせず待っていたわけではない、そのことが妙に嬉しかった。
*
棚の上には、何もなかった。
そのかわり、隣の卓に布袋と糸の箱と茶の器が寄せられている。空いた一段が、ここへ何かを置くために作られた場所だとはっきり分かった。
セリは棚の左を指し、少し考えてから右へ手を移した。
「こちらにお願いします。左は、戸を開けた時に袖が当たるので」
ナギが持ち上げる前に、リコは足元の敷物を確かめた。セリが端を戻し、二人は箱を棚へ置いた。外側の運搬具を外す間も、底を支える木は残る。
ボンゴの控えをリコが開いた。運ぶためのものと家で残すものが、別の図に描いてある。ナギが留めをほどき、セリにはどこへ触れれば持てるかを、空の運搬枠で示した。
持ち帰るのは、箱が道中でずれないよう外から囲っていた枠だった。中身を受ける内枠と底の支えは木箱の方に残る。セリは二つの図を指でたどり、棚の箱と見比べた。
「こっちは、持って帰るものですね」
「はい。箱を支える方は残ります。取り外せますが、今は付けたまま使えます」
セリは新しい木のところを見た。茶色い蓋の浅い傷が、以前旧堂で見た時と同じように光を受けている。外枠がなくなると、箱は少し小さく見えた。
「これなら、お茶の缶も横へ置ける」
彼女は卓から缶を一つ持ってきて、空いているところへ置いた。箱の横へ押し込みかけ、また少し戻す。指一本ぶんの隙間ができた。
リコは、その隙間を見るのが好きだった。ここへ届くまで、箱に必要だったのは動かないための間隔だった。いま作られた隙間には、缶を取る手が入る。
受領の控えへ、セリが署名した。棚の上、外装、残す支え。確認した箇所をリコが読み上げると、セリは最後に、これで済みですか、と尋ねた。
「配達は、これで」
自分の声が思ったより早く出た。
*
セリは箱の蓋へ手を掛けなかった。
卓へ置かれた針の糸は、窓からの光を受けて細く見えた。リコには、その続きを縫う方が手間の少ない仕事に思えたが、セリは針を取って一度ほどき、最初から通し直した。袖の留めへ合わせて色を選んでいるらしい。箱の前で待つ間にも、彼女の夕方はもう先へ進んでいた。
リコは紙をしまいながら、次にその手が動くのを待っていた。旧堂で木箱を見た時、開けられる範囲は確かめてある。彼女が望めば、自分たちが帰ったあとでも開けられる。分かっているのに、ここへ運び終えた光景の先を、まだ見たかった。
セリが棚の前から離れた。
「今日は、このまま置きます」
卓に戻り、針を刺してある布を取った。
「留めが付いていないと、明日、着ていけないので。あと、食事会へ持っていく袋をどこへ入れたか、探さないと」
リコは笑いかけ、そのまま口を閉じた。箱より先にすることがいくつもある。セリはそれを説明しなければいけないと思っただろうか。
「運搬具は持ち帰りますね。戸口、もう一度開けてもいいですか」
リコは台の脇へ畳んだ枠を取った。セリが道を空ける。
ナギは残した支えが棚へ収まっているのを最後に目で確かめ、控えを彼女へ渡した。それ以上、箱へ近づかなかった。
「明日、お会いできたら」
リコが言うと、セリはうなずいた。
「行きます。何時からでしたっけ」
リコは会の時刻を伝えた。誰かの思い出を話す用意も、木箱を持ってくる必要もない。すでに知らせてあることを、ここでもう一度並べそうになったが、セリが聞いたのは時刻だけだった。
彼女は卓の端へ置いた紙に数字を書いた。針を持つ手と同じ手だった。
戸が閉まる前に、リコは棚を一度だけ見た。木箱の横に茶の缶があり、その手前を、赤い上着の裾が通った。
*
台車へ空の枠を載せると、リコは留め紐を結び直した。
荷がない時ほど適当に済ませたくなるが、曲がり角で滑れば、誰かの足へ当たる。二度引いてから立ち上がると、ナギは道の端で待っていた。
「忘れ物?」
尋ねられ、リコは首を振った。
二人で坂を下り始めた。車輪が同じ石の上で跳ね、帰りの方が音が軽い。木箱の重さがなくなったぶん、手が先へ行こうとするので、リコは持ち手を少し引いた。
「受け取ってもらえたのに、まだ途中みたい」
ナギはしばらく答えなかった。リコは彼の返事を待ちながら、自分が何を途中と呼んだのか考えた。配達は済んだ。受領の署名も、日時もある。今日の仕事のどこにも、箱を開けるところまで、と書いてはいない。
「開けるのを見たかったんだと思う」
先に自分で言った。
「中身より、見た顔を」
ナギは道の継ぎ目で台車の端を支えた。車輪が持ち上がり、向こうへ下りてから手を離す。
「時計の支えを作った時、置いたところを見たくなった」
「時計の人の家で?」
「うん。傾かないかは、作業台で確かめたのに。どういう棚なんだろうって」
リコはセリの茶の缶を思い出した。あれは図に入っていなかった。入れる必要のないものだった。
「見ると、また直したくなる?」
「たぶん。置く場所を変えればいいのに、支えを作り直したくなることもある」
ナギが言って、少し困った顔をした。リコは笑わなかった。相手の暮らしの中へ、自分の仕事が続いているのを見たい。その気持ちは、彼女にもまだあった。
*
パン屋には、平たい焼き菓子が三つ残っていた。
リコは台車を道の邪魔にならない所へ寄せ、店の戸口から数を見た。三つをどう分けるか考えている間に、後ろから来た人が一つ買った。
「二つで、お願いします」
言うと、店の人は紙へ包みながら笑った。
「ちょうどよかったね」
何もかもがちょうどよく終わるわけではない。今日は二つ残っていたので二つ買う。その程度のちょうどよさを、リコは両手で受け取った。
坂の途中にある手すりの内側で、二人は台車を止めた。荷を載せたまま食べるわけではなかったが、空の枠の上へ菓子を置くことは避け、紙ごと持った。
薄い蜜が端へ溜まっている。リコが最初の一口を噛むと、思っていたより硬く、小さな破片が紙へ落ちた。ナギの方は中央から割れた。
「どうして、そこから割れたの」
「分からない」
珍しく即答だった。リコはもう一口かじった。分からなくても、半分ずつにはなっていた。
港の向こうで暮色が濃くなる。灯台を直した島は、ここから家の窓のようには見えない。副担当は今頃、次の人へ図を渡しているだろうか。考えてから、リコは紙に落ちた欠片を拾った。
*
窓口へ戻ると、時計の客へ到着の連絡が済んでいた。
明日の朝の在宅を再確認し、地元の配達担当が運ぶ。受領の結果は窓口へ戻し、リコたちの仕事の控えへ付ける。担当の指が翌朝の欄を押さえるのを見て、リコは礼を言った。
紙皿の箱も、集会所へ運ぶ荷の中に収まっていた。こちらは明日の準備に間に合った。封を切れば、一枚ずつ取り出して使われる。
セリが箱を開く音は今夜、自分の泊まる部屋まで聞こえない。リコは時計の控えを鞄へしまった。
台車を返して宿泊所へ歩く時、ナギが空の両手を一度見た。
「工具、忘れてない?」
リコが尋ねると、彼は鞄を軽く叩いた。
「ある。今日は、持ってない方の手が変だ」
「私も」
並んだ手は触れなかった。リコは肩掛けの端をその手で押さえ、ナギは戸を開けるために先へ出た。
宿の中は温かく、明朝の食事の時刻が入口に掛かっていた。リコはそれを読み、明日の名前を呼ぶ仕事の前に、朝ごはんを食べる時間を確かめた。




