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16. 灯台守の空かない手

 包みの中のパンは、昨日と同じ向きに残っていた。


 リコは昼前の灯台で、それを見つけた。古い包みを片づけようとした副担当が、重さに気づいて手を止めたのである。口を開くと、ちぎられてもいない丸いパンが、冷えた紙へ貼りついていた。


「昨日の昼も、下りなかったんですか」


 主任は部品の照合台から顔を上げた。


「夕方、宿で食べたよ」

「これは昼の分です」

「分かってる」


 声は強くなかった。そのせいで、会話を終えられてしまう感じがした。副担当は包みを閉じ、片づけるものと分けて置いた。

 今日は予備灯の見え方を確かめるため、担当が別の持ち場へ分かれる。昨日、照合を終えた交換部品もそろっていた。ナギは仮に組み合わせた支えを見ていたが、主任が席を立つと、すぐ顔を上げる。


「こちらも見ていただけますか」


 隣の作業員が先に、外の目印の高さを確かめてほしい、と呼んだ。

 主任は二つの呼び声の間で止まり、ナギへ手を上げてから外へ出た。ナギは支えへ手を掛けたまま待つ。リコは昼の包みを置く場所を探し、空いていた机へ近づいた。

 空いていたのは、椅子だけだった。机には未確認の札が四枚並び、どれにも主任の署名欄があった。


     *


 昼の鐘が鳴る少し前、主任が台へ戻ってきた。

 リコは包みを差し出した。今日は温かい根菜の入ったパンで、紙の内側へまだ湯気がついている。


「今、食べられますか」

「この確認が終わったら」


 ナギも自分の紙を見た。彼の確認はすぐ終わる、と言いかけたようだったが、隣には別の札が来ていた。

 主任はパンを受け取り、台の端へ置いた。手を空けて、二つの金具を比べる。その手首を覆う毛糸に、細い繊維が絡まっていた。

 リコは、少し待っていれば食べるところまで見られると思った。次の人が呼び、主任がうなずく。その人が去る前に、今度は有線の呼出し音がした。

 温かい包みへ触れる指が、一本もなかった。


「ここで代わりに見ていましょうか」


 ナギが言った。主任が返事をする前に、副担当が書類板を持って来た。


「あなたに聞くことが増えたら、次はあなたが動けなくなります」


 ナギの手が止まった。言われたことを不快に思ったのか、考え始めたのか、リコには顔から読めなかった。彼は金具を台へ戻してから、図面の余白を見た。


「どの確認で呼ばれるのか、分けられますか」


 副担当は四枚の札を広げた。一枚は足場の片づけ。一枚は予備灯の位置。一枚は蓄力部の交換に関するもの。最後は、今夜の観察の当番だった。

 主任は書類板の前へ来て、小さく息をついた。


「私が見る方が早いんだよ」


 リコも早いだろうと思った。一枚ずつなら、きっと早い。この人がいれば、訊く側は道を間違えずに済む。

 机のパンは、もう湯気を出していなかった。


     *


 外の通路を照らす灯りの前で、短い交替が試された。

 再開の判断を誰かへ丸ごと渡す話にはならなかった。作業口から見える灯りの状態と、立入らせない横木の位置を、交替の担当が確かめる。違っていたら作業を止め、次の確認ができるまでそのまま待つ。主任は裏の休憩室へ行く。

 副担当が持つ札には、灯りが消えた場合の連絡先と、迷った時に止める範囲が書かれていた。細かい手順をすべて札へ詰めると、読むだけで時間が終わってしまうため、主任は初めの二行を何度も削った。


「そこを消すと、理由が分からない」


 ナギが言うと、副担当が顔を上げた。


「理由は裏へ。私が今知りたいのは、ここを動かしてよいかです」


 主任は自分の字を眺めた。やがて、ナギへ新しい紙を頼んだ。

 リコは横で、受取の通知を思い出していた。知っていることを全部載せたい紙と、受け取った相手が一つ選ぶための紙。その両方を一枚で済ませようとすると、肝心なところが長い文の奥へ入る。

 完成した札を持って、副担当が所定の場所へ立った。主任は何か言い足したくなったらしく、戸の手前で振り返る。


「風が変わったら」

「止めて、呼びます。続きを勝手には進めません」


 主任がうなずいた。リコは自分がうなずかないようにした。返事をしたのは副担当で、この持ち場を引き受けたのも彼女だった。


     *


 交替して十分もたたないうちに、作業員が通路へ来た。


「灯りを一つ借りたいんですが」


 副担当は札を見た。予備はある。けれど、その灯りを外へ持ち出すと、次の交替の人が同じ数を確かめられなくなる。


「今、ここに置いてあるものは動かせません。倉庫の分なら、資材係に聞いてください」

「主任なら、こっちでいいと言うと思う」


 リコは案内台から顔を上げた。副担当は横木へ目を落としてから、作業員を見た。


「今は、私がここを見ています」


 声は普段と同じだった。


挿絵(By みてみん)


 作業員は灯りと書類板を見比べ、ため息を一つついて戻っていった。副担当の肩は少し固くなったが、休憩室の戸を開けに行かなかった。

 リコはその背中を見て、助かったと声をかけたくなった。けれど、彼女の顔は、感謝されるより放っておいてほしい顔に見えた。リコは入ってきた別の人へ道を案内した。

 交替の終わりに主任が戻ると、副担当は灯りの貸出しを断ったことも伝えた。


「あれは一本出せたかもしれないな」


 主任が言い、そこで止まった。

 副担当は何も言わなかった。リコも返事を待った。彼は自分で書いた札を読み直し、指で端をこすった。


「今日の札なら、そうなる。次の見直しで、貸せるものを別にしよう」


 副担当は記録へ一行加えた。主任が褒めたという形にはならなかったが、貸さなかった灯りは、そのまま持ち場を照らし続けた。


 主任は次に、誘導容器を見に行こうとした。副担当が始めの残量を読むところで、肩越しにのぞき込む。彼女は容器を抱え直し、目盛りの見える向きを自分へ戻した。


「それも、私が確認する分です」

「分かってる。巻き方を見たかっただけだ」


 主任は両手を上げた。怒られた子供のような仕草だったが、その目はまだ器の中にあった。

 副担当は少し考え、見終わった後の控えを指した。


「あとで、ここで見てください。今、どこまで読んだか分からなくなるので」


 主任は引いた。リコが通路を譲ると、彼は立ち止まり、器の中の繊維は以前扱ったものと少し違うのだと言った。


「新しい形を見るのが、嫌いじゃなくてね」


 リコはナギを見た。弟子でもない主任の気持ちが分かるような顔で、彼も容器へ目をやっていた。仕事を渡せない理由が、心配だけならもっと簡単なのかもしれない。二人とも、直るところを誰かに任せて遠くへ行くより、手元で見たかったのだろう。

 副担当が確認を終えて顔を上げた。


「読み合わせをお願いします」


 今度は主任が呼ばれて戻った。器の中を見る前に、彼女の指が置かれた数字を読み返した。リコは案内台で、冷えていく茶を一口飲んだ。


     *


 午後、ナギはトウマへ照会を書いた。

 しずく園で一緒に黒い生き物を観察した師匠なら、今の図を見れば何を尋ねたかったか分かる。そう思って書き始め、途中で紙を裏返してしまった。


「どうしたの」

「困っている場所が、多すぎる」


 リコは空いた側の椅子に腰を下ろした。彼の最初の図には、灯台から港まで一本の坂があり、棚と灯室と休憩室が入り込んでいた。トウマが説明のために作る町の模型を、弟子が一枚の紙へ詰めようとしているみたいだった。


「先生なら、家も描きたくなるね」

「描かれると思う」


 ナギは笑い、紙をもう一枚出した。故障部と交換する範囲を一枚へ、交替で詰まった場面をもう一枚へ分ける。すぐ来てほしいとも、返事があるまで修理を止めるとも書かなかった。現地の担当が進める今の処置を記し、後日の点検と訓練に使える助言を求めた。

 午後の通常便へ間に合うよう、リコが坂を下りた。宛先を確かめ、受渡しの印をもらって戻ると、灯台の仕事はその間にも進んでいた。

 誘導容器の使用時間、離れた囲いの見守り、翌朝の交換。副担当が当番の人と紙を読み合わせている。ナギは輪の外側に立ち、質問が来た時だけ答えた。

 自分がいなくても仕事が進むのは、嬉しいばかりではない。リコは受渡しの控えを鞄へ入れながら、もう少しだけ、あの札を作るところにいたかったと思った。


     *


 主任が食べ直したパンは、温めた鍋の隣で少し柔らかくなっていた。

 休憩室には低い卓と椅子が三つある。窓は曇り、袖で拭くと作業口の明かりが見えた。主任は椅子へ腰を下ろしたあとも、背をもたせずに前へかがんでいた。


「若い頃は、ここで一度に三つ鍋を掛けていた」


 湯の器を見ながら言った。


「今は一つでも、誰が下ろすか聞かれます」


 リコが返すと、主任は初めて声を出して笑った。毛糸の手首覆いを少し下げ、パンをちぎる。あたたかい中身は残っていなかったが、彼は続けて二口食べた。

 ナギは椅子の横で、記録板を片腕に載せたまま書いていた。灯台の主任は座った。だからこちらは立っていてもよい、という形に、いつの間にかなっている。

 リコは湯を二つ置いた。


「次は、誰の時間?」


 ナギは当番表を見た。


「副担当が戻るまで、二十分」

「私たちが食べるのも、その二十分」


 彼は書いていた一行を終えた。もう一行加えようとして、鉛筆をしまう。椅子を引く音が、休憩室ではひどく大きかった。

 座ってからも、彼の膝は戸の方を向いていた。リコは直してとは言わず、二つに割ったパンの大きい方を自分の皿へ置いた。


「先に選んだね」

「坂を往復した分」


 ナギは小さい方を取った。主任が自分の包みから、残していたもう一つを出して卓へ置く。三人ともそれを見たが、すぐ手を伸ばす人はいなかった。

 しばらくして、主任がまた半分にした。


「これは私が食べるよ」


 その言い方が少し可笑しくて、リコは茶の器を口元へ上げた。

 戸の向こうでは副担当の声がし、交替の人が返事をした。誰も休憩室へ入ってこなかった。湯の温かいうちに、三つの器が空になった。


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