9. 故郷の名前を書く場所
コトリ島へ向かう朝、リコは荷物を留める帯に、いつもより長く手を置いた。
自分の家へ帰るのに、局の仕事で帰る。
鞄の中には調査用紙が入っていた。母への土産を入れる場所は、その横に少ししか残っていない。リコは前日に買った茶葉の包みを押しつぶさないよう収め、蓋を閉じた。
「帰りに引き受けられる荷の分、ここまでだね」
空けた区画を指すと、ナギが計画の控えと見比べた。
「うん。重さは現地でも確かめる。風が変われば減らすよ」
「分かった」
片道は二時間ほど。帰りの飛行と、向かい風になった時の余力は別に残してある。現地で使える時間には、船へ戻って点検する分も含まれていた。
コトリ島には、ツバメ号の風実へ力を補える設備がまだない。船を浮かせる力を蓄えたこの部品を、往復でどれだけ使うか。ナギが出発前に確かめていたのは、その残りだった。
リコは鞄の茶葉を入れた辺りに、そっと手を当てた。母が包みを開ける時に、あの店と同じ匂いがすればいい。
コトリ島の受取状況を確かめる訪問は、局から既に連絡が行き、母のスイの返事も届いていた。行先の欄には、馴染みの桟橋が記してある。郵便の住所では隣島の名を先に書くのに、今日の行先ならコトリ島とだけ書けた。
島の場所も、そこへ飛ぶ道も知られている。ただ、郵便の台帳では、まだ隣島とひとまとめにされていた。手紙や荷物はまず隣島の受取所へ届き、そこから住民が舟で運ぶ。今日は、その受け渡しに誰がどれほど手をかけているかを聞きに行くのだった。
今朝、マレは送り出す前に言った。
「お母さんの話と、ほかの人の話と、両方聞いてきてね」
リコはその言葉を、控えの端に書いていた。
*
帆が風を受け、ミナト輪の屋根が遠ざかる。
行先を知っていると、空の広さまで違って見えた。あの低い雲を越え、二つに分かれた岩の島を回る。旅客の席から何度も眺めた道を、今日はナギの隣で確かめていた。
「あそこの橋が見えたら、うちの島」
十分に近づいてから、リコは窓の向こうを指した。
畑と家並みの間に架かった細い橋。その先の畑では、鳥よけの鈴が日を受けて光っている。春の風が通るたび、順に鳴る。音はまだ聞こえないのに、耳が覚えていた。
「橋の向こうが家?」
「もう少し奥。かまどの煙が見えるでしょ。あそこから近いの」
ナギは航路の確認へ目を戻した。
リコも自分の欄へ到着の時刻を書き込む用意をした。鞄から出した鉛筆を、折れないように持ち直す。
ツバメ号は、桟橋で待っていた住民の合図を受けて近づいた。既存の係留場所で綱が渡され、ナギが留まりを確かめる。風実の残量を記録し、帰りの見込みを二人で確認してから、リコは渡し板を降りた。
板の先に、母がいた。
前掛けのポケットから鉛筆がのぞき、その横に折った買い物メモが差してある。会わなかった間に何か大きく変わっていてほしかったような、何も変わっていてほしくなかったような、妙な気持ちになった。
「おかえり」
スイはリコの腕へ昼食の包みを載せた。
「ただいま。……今日は、調査です」
「ええ。聞いています」
母は笑いもせず、もう一つの包みを持ち上げた。
「こちらは?」
「ナギ。同じ船の担当で、船と運航を見てくれてる」
紹介されたナギが頭を下げると、母はその手にも包みを渡した。
「スイです。娘がお世話になっています」
「こちらも、お世話になっています」
ナギが真面目に答えたので、リコは二人を交互に見た。母は二人の包みが同じ大きさか見比べ、リコの方を少し持ち上げ直した。
「じゃあ、お昼も二人で忘れないようにね」
スイは桟橋の先へ歩き始めた。
用意していた挨拶は一つも使わなかった。それでも、胸の中に残っていた緊張は少しほどけた。
*
家の戸を開けると、干した香草の匂いがした。
リコは茶葉の包みを出した。
「通りのお店で、香りを試させてもらって。これが一番好きだった」
「リコが?」
「うん」
スイは包みを受け取り、折り目へ鼻を近づけた。
「じゃあ、仕事の話が終わったら、その店の話も聞かせて」
リコは鞄に残った細かな茶葉を払った。
「小さい缶が、壁じゅうに並んでるお店なの」
「それで、一番好きなのを?」
「二つで迷った。もう一つは、もっと甘い匂いがして」
話し始めると、先にこちらを聞いてほしくなった。母も包みを置かずに待っている。リコは笑いかけ、それから鞄の書類を取り出した。
「あとで、続きを話すね」
卓の端には、リコが昔つけた浅い傷がある。そこへ業務用の紙を広げるのが落ち着かず、いったん手でこすってから、板挟みを置いた。
ナギは帰りの荷の置き場所を確かめるため、いったん桟橋へ戻った。島の道の分かれ目を教え、リコは母と卓に向き合った。
スイが持ってきたのは、紐でくくった受取帳だった。
「局へ出す相談に必要なところは、写していいから。ほかの人の手紙は入っていないよ」
母は日付のある頁を開いた。
隣の島でまとめて受け取った荷物を、誰の舟で運んだか。受け渡した日と、引き取りに来た人の印。使い込んだ紙の上で、違う太さの字が並んでいた。
リコは知っている名前を指で追った。畑で会えば必ず天気を聞く人。橋の板を直してくれた人。自分が小さかった時に、母の帰りを待つ間、一緒に豆を選んだ人。
「この日、お母さんの番じゃなかったよね」
書き直された当番欄に、スイの名前があった。
「舟を出す人の仕事が延びたの。戻る時に一緒に運んでもらう予定だったけど、荷物だけ先に受取所へ着いてしまって」
「それで、代わりに?」
「私は翌朝のかまどを代わってもらった」
次の頁には、別の人の名前が入っていた。
リコは二つの頁を行ったり来たりした。舟の欄で出てきた名前が、次の朝のかまどの欄にもある。その横に、また別の字で交替の日が添えられていた。
リコにも覚えがあった。夕方になってから、明日のパンは違う人が焼くと聞いたこと。母の帰りが遅い日、隣家で夕食を食べたこと。
用事があったのだろうと思っていた。その用事が、自分の靴や本を島へ運ぶことだった日もある。
「これ、運んだ時間も残した方がいいね」
「そうね。待っていた時間は、ここに書いていない」
スイは空欄へ目を落とした。
「向こうの受取所でも、置く場所を空けてもらっているから。こちらの名前だけ変えれば、全部片づくわけじゃないんだよ」
母に否定されたような気がして、リコは鉛筆を握り直した。
名前が大事だということを、一番分かってくれる人だと思っていた。
「でも、ずっとよその島の名を書くのは……」
「うん。変えたいよ」
返事は早かった。
スイは帳面の古い頁に挟んであった、薄い控えを引き出した。昔の台帳では、コトリ島は隣島の一部にまとめられていた。その扱いが、受取の書類にも残っている。
「このままでいいと思って残してきたんじゃない。変える時に、どんな受取りをしてきたか言えるように」
リコは母の手を見た。
前掛けで拭いても落ちない粉が、爪の脇に残っていた。受取帳の角にも、同じような白い跡があった。
「これも、写していい?」
母は控えの端を伸ばし、リコの板挟みの横へ置いた。古い折り目の底は薄くなっていた。リコは文面を読み、隣島の名まで写して、鉛筆を止めた。
「お母さんは、どういう受取り方にしたい?」
スイは椅子へ座り直した。
「雨の多い時期と、収穫の頃では違うからね。今日ここにいない人にも聞きたい」
リコは母の言葉を記した。来てほしい、という一行だけなら、来る前から用意していた。雨の時期と収穫の頃の間を少し空けて書くと、母がそこへ指を置いた。
「取次先にも、相談はいるよ」
「うん。その前に、どの時期がいちばん困るか聞かせて」
スイは記録の束をもう一つほどいた。卓の浅い傷が、紙の下へ隠れた。
*
受取の当番だった男性が、交替表の写しを返しに立ち寄った。
「おや。肩掛けまでつけて」
「仕事中です」
「見れば分かるよ。ずいぶん真っすぐ座ってる」
リコは思わず背を緩め、母が横で笑った。
男性にも、受取の待ち時間を聞いた。天候によっては舟を出す日を変える。そういう時に畑の仕事まで全部なくなるわけではないから、出られる人を探す。その返事をリコは、母の言葉とは別の欄に書いた。
話の終わりに、局から許された照合の項目を取り出した。
郵便局の古い設備から見つかった依頼書には、アカリの町の住所を調べてほしいとあった。故郷のコトリ島とは別の、リコがまだ場所を知らない町だ。今出した紙には、その呼び名と、添えられていた図の橋、共同かまどという目印だけがある。依頼の原本も、私的な事情も、広げない。
「この名の町へ行く人を、ご存じありませんか」
男性は紙を見てから、スイへ顔を向けた。
「道具を売りに来る舟の人が、その名を言ってなかったか」
「品物の送り先を相談した時ね。でも、私は行ったことがない」
母は戸棚から、商いの連絡先が書かれた札を持ってきた。物売りが客へ渡しているものだった。ミナト輪の市場で連絡を取れる場所と、次に立ち寄る予定が記してある。
「写してもいい?」
「問い合わせに使うための札だからね。ただ、町のことは本人に聞いて」
リコは一字ずつ写した。市場の連絡場所を読んで、顔を上げた。
「ここなら、帰ってから行ける」
知っている通りの名だった。町への船着き場を探していたのに、手がかりは毎日歩く町の中にあった。札を裏返してほかにも書いていないか見て、もう一度表へ戻す。
「来る予定は、変わることもあるけどね」
スイの言葉を欄外へ加えた。リコは札を母の方へ戻しながら、受取帳の脇に置かれた台所道具を見た。こういう物を売る人が、あの橋も渡っているのかもしれなかった。
桟橋を見て戻ったナギへ、写した札を見せた。彼は連絡場所を確かめ、うなずいた。
「帰ってから、訪ねられるね」
「うん」
スイが帳面を閉じかけると、戸口から女性の声がした。
「かまど、次の生地を入れるよ。鍋はどうする?」
「今、行きます」
母は返事をしてから、まだ書きかけの紙を見た。
「残りは、かまどの方でいい? あそこなら、受取りに来る人にも聞けるから」
リコはうなずき、帳面を返した。自分の紙だけをまとめて鞄へ入れる。
母はもう、戸口の女性と鍋の大きさを話していた。リコは茶葉の店の続きを口の中へ戻し、鞄の口を閉じた。聞き取りの紙を出したのは自分だった。あとで、と言ったのも。
スイが昼食の包みを指した。
「それも忘れないで」
ナギは既に二つとも持っていた。
リコは礼を言い、戸を押さえた。外から、畑の鈴と、焼ける粉の匂いが入ってきた。




