10. かまどの順番
共同かまどの前では、リコの知っている声が、リコの知らない用件を話していた。
「大きい鍋は、パンを出してからね」
「分かってる。こっちの生地が先」
家から歩いてきた共同かまどは、島の人が順番にパンを焼き、鍋をかける場所だった。屋根の下に長い作業台があり、布をかけた生地と、まだ包み終えていない荷物が、場所を分けて並んでいた。かまどの口を開けた女性が、長い板で焼けたパンを引き出す。熱い匂いが広がり、ナギの目がそちらへ動いた。
スイは袖をまくり、自分の鍋の置き場所を確かめた。
「リコ、そこの台、拭いてもらえる?」
「うん」
返事は昔と同じように出た。
鞄と肩掛けを粉の飛ばない場所へ置き、手を洗う。濡らした布で台を拭くと、木目の中から昔の焦げ跡が現れた。ここでは何をすればよいか、教えてもらう前に分かることがあった。
台の端で、男性が修理に出す鍋を包んでいた。持ち手の付け根が緩み、使うのをやめた品だという。その隣には、仕立て上がった前掛けの包み。ミナト輪の客へ送るための札が添えてあった。
「これ、明日の舟?」
リコが尋ねると、男性がうなずいた。
「隣の島の受取所へ持っていく。そこからミナト輪へ頼むんだ」
すぐそこに、自分たちの船がある。
帰りに小口を預かることは、局から認められていた。今朝確かめた空き区画が頭に浮かぶ。重量を量り、荷の形を確かめ、届け先をそろえれば、持ち帰れるものはある。
「まとめて運べたら、明日の舟を出さずに済むかな」
母へ言うと、隣で生地を分けていた女性も顔を上げた。
「ミナト輪なら、午後に焼く注文のパンもあるよ」
「返す籠も出しておくかい?」
話を聞いた人が、壁際から大きな空籠を持ってきた。
リコは紙を出し、帰りの空き区画と船へ戻る時刻を伝えた。荷の名前を書きつけるたびに、次の品を持つ人が近寄ってくる。
それでも、全部の欄に丸をつけたくなった。
*
秤を借り、包みを一つずつ載せた。
ナギは重さと大きさを控え、帰りの風を織り込んだ積み方を考えていた。前掛けと修理品は収まる。大きな空籠は軽いが、決めた荷物区画からはみ出す。
「通路には置けないよ」
「畳める籠じゃないんだね」
リコが縁を確かめると、持ち主が笑った。
「畳めたら、俺もこんな苦労してない」
籠は一度、元の場所へ戻った。
次にパンの焼き上がりを尋ねた。今は別の家の生地がかまどに入っている。注文の分を焼き、運べるまで冷ますと、二人が船へ戻る予定を過ぎる。
「注文のは、今の次?」
「もう一組の後。そちらが焼けたら、鍋も入るの」
小さな鍋の蓋を持った女性が答えた。家の分を焼いてから、次の仕事へ行くのだと話していた人だった。リコは焼き上がりに冷ます時間を足し、パンの欄へ『明日の舟』と書いた。
「こっちは、元の予定でお願いします」
「分かった。どこへ置けばいい?」
リコが粉のかからない台を示すと、女性は注文札をそちらへ移した。さっき増えたばかりの候補が、もう二つ減っていた。
ナギが時計を確かめた。
「僕は予定どおり、先に港へ戻る。天気を見てから、積み込む量を決めたい」
「分かった。荷物の方を、そこまでにまとめる」
彼が控えを閉じたところで、スイが昼食の包みを二人の間に置いた。
「まず食べてからね」
リコは紙を板挟みの奥へしまった。包みを開けると、豆の香りが立ち、空腹が急に戻ってきた。
*
包みには、母の焼いたパンと、香草を混ぜた豆が入っていた。
ナギが一口食べ、豆をよく見た。
「この匂い、家に入った時にもした」
「乾かしてあるの。今日は少し多め」
スイの返事を聞きながら、リコもパンをかじった。
宿舎で真似してみようと思った味だった。母の手元を見れば何でも覚えられるつもりだったのに、離れて暮らすと、分量を知らないものばかりだった。
「あとで、混ぜるところを見てもいい?」
「自分で混ぜてみる?」
「うん」
母はうなずき、鍋の取っ手をリコの方へ向けておいた。
食べ終える頃、明日の舟を出す男性が戻ってきた。荷物を減らせると聞いて喜んだが、舟そのものは出すのだと言った。
「粉を買うからね。帰りに隣の島の荷も頼まれている」
リコは今日の候補を見直した。丸を付けた欄の下に、粉の仕入れ、と小さく書き足す。出ていく荷の紙に、帰ってくるものの名が入った。
「じゃあ、何を先に持っていくと助かりますか」
「受取所までの坂で、鍋を運ぶのに二人いる。あれを頼めるなら、向こうで人を呼ばずに済むよ」
リコは修理品の欄に印をつけた。男性は鍋を指して、取っ手を持たないよう念を押した。底を支えて運ぶと答えると、そこは任せた、とようやく笑った。
ナギは空の包みを片づけ、予定どおり先に港へ戻った。リコは礼を言い、残りの聞き取りへ紙をめくった。
母が隣へ座った。
「何も持てなくても、聞きに来てくれたら助かるよ」
「でも、明日も舟は出るんだね」
声に不満が残った。鍋を持っていってくれれば助かると、さっき言ってもらったばかりなのに。母の前でだけは、その先のもっと大きな仕事をしたかった。
スイは紙をのぞき込んだ。
「リコ。私が一人で受取の相談を持ち帰らないようにしてくれる?」
リコは顔を上げた。
「いつも、家に帳面を置いているから、私に聞けば何とかなると思われてしまうの。私もそう答えるしね」
母が笑った。少し困った笑いだった。
「ここにいる人に、一緒に聞いてくれる?」
*
昼の片づけの合間をもらい、リコは島へ運んできた郵便物をどこで預かればよいか尋ねた。住民が引き取りに来るまで置く、共用の受取箱の候補地だ。今ある受け渡しを整理する話で、島へ定期便が来ると決まったわけではなかった。
かまどの近くなら人が集まるが、火口の脇では熱と粉がかかる。家の中では、留守の時に受け取れない。雨の入らない軒下を指す人もいたが、そこには薪が置いてあった。
「薪を動かすなら、当番にも聞かないとね」
スイが言った。
リコは薪置き場の横へ当番の名前を聞いて書き、相談の相手に加えた。箱の大きさは空欄にしておく。
島に寄る調査船へ、今後も協力できるかという問いには、男性が桟橋の方を見た。
「舟を留める場所は相談できるよ。でも、誰かが来るなら、分かるようにはしてほしい」
「待つ人を、一人に決めっぱなしにはしないでね」
女性が続けた。スイが受取帳へ手を載せる。
「ここには、私の名前が多すぎるからね」
声が少し低くなった。リコが顔を見ると、母は帳面を隣の男性へ向けていた。
記録を預かる人と、舟が来た時に出られる人。兼ねられる日も、兼ねられない日もある。今すぐ新しい当番を始めるのでなく、次に人が集まる時に話すことになった。
風実へ力をため直す、接続具付きの充填棚については、ここで使えるものがあるとは答えられなかった。これは風や光から得る力を船の蓄力部品へ補う設備で、普通の物置棚とは違う。船ごとの部品に合う棚も、点検する人も必要になる。リコはナギから預かった確認項目の横に、「局へ相談」と書いた。今日の帰りの分は、今朝から船に残してある。
話を終えると、母は鍋の方へ立ちかけた。
「それは見ておくから。お茶を飲んで」
生地を扱っていた女性が声をかけた。スイはかまどを一度見て、それから腰を下ろした。
朝渡した茶葉を、母はかまどへ持ってきていた。
湯を注ぐと、試飲した店で感じた香りが広がった。リコは、小さな茶缶が壁いっぱいに並ぶ店の話をした。どれを買うか決められず、同じ缶の前を二度通ったことも話した。
「次は私も迷いたいね」
母が言った。
リコはうなずきながら、その時に見せたい通りを思い浮かべた。
*
残りの昼休みには、母と豆を混ぜ、生地を丸めるのを手伝った。
しばらく使っていない手つきでも、丸め方は体に残っていた。掌の下で形が整うのが気持ちよく、リコはつい次の生地にも手を伸ばした。
「そこまで。帰る分まで焼かなくていいの」
母に止められ、笑って手を引いた。
紙を見ようとして額へ触れると、周りの二人が顔を見合わせた。
「何?」
「郵便の人って、顔にも印をつけるの?」
差し出された濡れ布で拭くと、白い粉が付いていた。リコも笑った。荷札を触る前に、もう一度手を洗った。
先に丸めてあった小さな生地が焼き上がり、作業をした人で分けた。リコも熱の抜けた端をもらった。生地を分けていた女性が、そこが好きだったね、と大きい方を寄越した。
リコは端を二つに割り、大きい方を食べた。もう片方も口へ持っていきかけ、包む紙を探した。母が小さく切った紙を差し出す。
「ナギさんの分?」
「うん。……半分だけになったけど」
「最初から半分だった顔で渡したら」
リコは笑い、紙の両端を折った。
持ち帰るのは、受付を済ませた前掛けの包みと修理品、封をした手紙、それに調査の控えになった。宛先と料金を確認し、預かった印の控えをそれぞれに渡す。大籠と午後のパンは、もとの舟の予定に残した。
受取帳の原本は島に置き、必要な記録の写しをスイと照合する。物売りの連絡札も、原物は返した。次に誰が何を確かめるかを書いた紙は、島側にも一枚残した。
桟橋へ戻ると、ナギが風と残量を確かめ終えていた。荷を積み、重さと固定を二人で確認する。予定の範囲で帰れると分かり、リコはようやく母へ向き直った。
「また来るね。今度の仕事の日は、決まってから知らせる」
「仕事じゃない日にも、おいで」
リコはうなずいた。渡し板へ上がりかけて、もう一度母を見た。
「茶葉、甘い方も今度ね」
「私が選びに行く分は、残しておいて」
母は見送りの手を振った。リコも肩の高さまで手を上げた。
*
ミナト輪へ戻った時には、まだ港の建物に日が当たっていた。
帰りは往きより風を受けた。ナギが実際の所要と消費を記録し、リコは預かった品を局の仕分けへ引き渡した。自分の鞄からは、小さなパンの包みを取り出してナギへ渡した。彼は思いがけない物をもらった顔で紙を開いた。
マレの机へ置いた調査の控えは、朝より厚くなっていた。
「まず、受取の相談を母一人に集めないようにします」
リコは紙を開いた。当番、季節ごとの便、関係する受取所との相談。その間に、母の字で一つ、訂正が入っている。マレがそこを読む間、リコは次に聞く人を指で示した。
物売りの連絡先を、別の紙で渡した。
まだ訪ねたことのない町へつながるかもしれない場所。その名前を写した時の胸の弾みが、疲れの下から戻ってきた。
肩掛けを外すと、端に小さく粉が残っていた。
リコは窓の外で払った。白い粉は夕方の光を一瞬だけ受け、もう見えなくなった。




