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8. 帰るところのある夕方

 その週の終わり、リコは夕方の通りを、買物袋を提げて歩いていた。


 初めての休日は、思ったほど長くなかった。

 洗濯をし、昼を食べ、少し横になったら、窓の光が動いていた。まだ何もしていない気がして、机の引き出しを開けた。


 局に置いた図を、もう一度見たいと思った。

 持ち帰ったのは、自分の小さな手帳だけだ。客の名前も、手紙の写しもない。仕事を覚えるための短い言葉が、何頁か増えていた。


 その頁を行き来していたら、お腹が減り、食べる物を買う時間になった。


 通りの店は、局へ急ぐ朝と違う顔をしていた。籠に積まれた春の葉物。窓辺で磨かれる靴。布屋の軒先では、細いリボンが揺れている。


 リコは、青い一本のリボンの前で足を止めた。


 髪が肩へかかるようになってから、作業中にまとめる紐は持っている。これがなければ困るわけではない。

 店先で眺めていると、店主が片方の端をほどいてくれた。


「長さ、見てみる?」


 リコは袋を足元へ置き、作業用の髪紐をほどいた。

 鏡の中で、栗色の髪に青が重なる。制服ではない普段着の肩まで、少し違って見えた。


 端を長く残すか、短く結ぶか。店主に鏡を傾けてもらって、横から一度見た。青い端が、自分が思っていたよりよく揺れた。


「結び直してもいいですか」

「好きなだけ。私の手が疲れるまでね」


 リコは笑い、もう一度だけ結んだ。今度は店主の顔を見ず、鏡の中の自分へうなずいた。


 野菜と卵を買った後に残る分で足りた。

 リコはリボンを包んでもらった。


     *


 町側の路地にある職員宿舎は、郵便局とは別の、小さな平屋だった。入ってすぐの居間と台所を共用し、奥の廊下から、それぞれの個室へ入る。

 リコの部屋は左、ナギの部屋は右。今朝は出かけた時刻も、昼を食べた時刻も違った。


 リコが買物を台所へ置くと、居間で椅子が小さく鳴った。


 ナギは椅子に座らず、その背に手を掛けている。


「どうしたの?」

「こっちへ体重をかけると、少し動くんだ」


 四脚の椅子は、どれも形が少しずつ違う。

 リコがいつも使う椅子を、ナギは床の上で押していた。


「脚そのものじゃないかもしれない。この継ぎ目が――」

「じゃあ、今日はこっちにする」


 リコは隣の椅子を引いた。

 手帳と買った物を置くと、ナギが少し黙った。


「……うん。それでもいい」


 リコは顔を上げた。


「直したかった?」

「気にはなってた」


 膝のそばに、小さな手工具箱があった。

 リコは自分の手帳を見た。開いた頁の、同じ三行を、帰ってきてからもう二度読んでいる。


「ご飯、どうする?」

「まだ決めてない」

「一緒に作る? 私、葉物を買いすぎたみたい。別のものを食べたかったら、明日にも回せるけど」


 ナギは袋の中を見た。


「何を作るつもり?」

「薄焼き。知らない?うちでは残った野菜を入れる」

「それ、カリカリになる?」

「なるよ」

「じゃあ、食べたい」


 リコは手帳を閉じ、食卓から脇の棚へ移した。ナギも工具箱を閉めたが、椅子を見てから言った。


「洗った野菜が乾く間に、少しだけ見てもいい?」

「うん。食べ始めたら、おしまいね」

「分かった」


     *


 葉を洗い、二人分の粉を量った。

 リコはボウルへ卵を割り入れ、少しずつ水を加える。ナギは椅子の脚を拭いてから、継ぎ目を確かめていた。


「かまどの端で焼くと、もっと大きく作れるんだけど」


 リコはへらで小麦粉を混ぜた。

 母の使う焼き板の大きさが手に残っていて、二人分のボウルは頼りなかった。


「コトリ島の?」

「うん。うちの近くの共同かまど。夕飯のついでなのか、人の夕飯を見に来たついでなのか、分からない人がいる」

「何が違うの」

「自分の器を持ってるかどうか」


 ナギが笑った。

 リコも笑い、小麦粉の袋を閉じた。


「でも、たいてい誰かが余分に焼いてる」


 母は、足りると言う時も、足りないと言う時も、よく似た顔をしていた。リコは今まで、出てきた分を食べ、運んでと言われた物を運んできた。

 休みに入る前、マレから、来週の近隣調査でコトリ島の住所状況も確かめたい、と話があった。リコが以前から話していた、他島を経由する受取のことだ。訪問の了解と日取りは、局から連絡して整えるという。

 母がかまどに立っているところへ、肩掛けを着けて、帳面を広げる自分を想像した。いつもの声で鍋を運んでと頼まれたら、どうするのだろう。


「調査で帰るの、変な感じ」

「家の人に仕事を見られるのは、僕も落ち着かない」

「格好つけたくなる?」

「つけられるなら」


 ナギは小さく笑って、椅子を起こした。


 リコが座ると、音はしなかった。

 体を少し動かしてみても、さっきの揺れがない。


「本当だ」


 ナギは、工具を布で拭いた。

 リコはもう一度座り直した。いつも何となく片足へ寄せていた体重を、真ん中へ置けた。


「ありがとう」


 そう言うと、ナギは椅子ではなく、リコの方を見た。


「どういたしまして」


 返事が少し遅れた。


 彼が工具を片づけ、手を洗っている間に、リコは台所の火を整えた。

 鍋に生地を薄く流す。葉の緑が、白い生地の間に広がった。


 じりじりと端の色が変わり、へらを入れたところまではうまくいった。


 裏返す時に、半分が折れた。


「あ」

 リコは鍋を見た。

 ナギも見た。


「……うちでは折って食べるから」

「焼く前に?」

「焼いた後に」


 結局、二人でへらを差し入れて開いた。真ん中に折り目が残ったが、生地は破れなかった。


 二枚目は小さく焼くことにした。

 ナギが裏返すと、端が少し鍋からはみ出した。二人で顔を見合わせ、今度は三枚目の大きさについて相談した。


 食卓に並んだ薄焼きは、不揃いだった。

 リコは細く切って重ねようとしたが、ナギは大きな一枚を皿に取った。


「このままがいい」

「大きいよ」

「端のカリカリの部分が多いから」


 ナギが一口かじると、気持ちのよい音がした。


 リコは自分の分に塩を少し振り、やわらかい真ん中を折った。家で食べる形にすると、野菜の味が舌に広がる。


「それだと、音がしない」

「しなくていいの」

「そこが好きなのかと思った」

「ナギは、音も食べるんだね」


 ナギは笑いかけて、口に入っていることを思い出したらしい。慌てて飲み物へ手を伸ばした。


 リコは声を上げて笑った。次の一枚を半分に切り、ナギの皿と自分の皿へ載せた。三枚目には折り目がなく、ようやく人に見せられる形になったのに、食べる方が先だった。


     *


 食後は、買ってきた柑橘を一つずつむいた。

 細い皮が途切れずに取れて、リコは少し得意になった。ナギの方は、もう房に分かれている。


「速い」

「つながってない方が、むきやすい」


 リコは皮の輪を皿へ置いた。短く切れたナギの皮を端につないでみると、皿の縁まで届く輪になった。


「こんなに大きかったらいいのに」

「一人で食べる?」

「二人でも残るかな」


 食べ終わったら、また何か食べる話をしていた。


 窓の外で、子供が誰かを呼んでいた。遠い港の鐘が重なり、通りを歩く人の影が長くなる。

 ナギが椅子にもたれると、小さく、きい、と鳴った。


 二人とも止まった。

 今度はナギの座っている椅子だった。


「そっちも?」

「音の出る場所が違う」


 すぐに立ちそうになった彼の手が、椅子の縁で止まった。


「……これは、また今度にする」

「明日もここにあるしね」


 ナギはうなずいた。背もたれへ戻ると、椅子がもう一度鳴った。

 リコは笑ったが、彼は今度は立たなかった。


 皿を洗い終えた後、リコは棚の手帳を買物袋へ収め、袋の持ち手を腕へかけた。


「私、母に手紙を書く」

「来週、会うんじゃなかった?」

「たぶん。でも、風で予定が変わるかもしれないし」


 今日の夕飯の話しをするなら、今がよかった。来週、家のかまどの前に立ったら、うまく作った話ばかりしてしまいそうだった。


 廊下で分かれ、自分の部屋へ入った。

 ナギの扉が閉まる音を聞きながら、机の上を空ける。手帳は引き出しへ戻し、私用の便箋を取り出した。


     *


 最初は、仕事のことを書いた。


 初めて自分の担当の便を終えたこと。まだ聞き忘れることもあるけれど、教えてもらえる人がいること。

 そこで、筆先が止まった。


 元気に働いていると伝えたかった。

 けれど、ずっと上手に働いているように書くと、母に出す手紙なのに、少しよそよそしくなる。


 リコは続けた。


 今日は洗濯をした後、昼寝をしました。起きたら夕方に近くなっていて、少し損をした気がしました。でも、買物に行ったら青いリボンがあって、買いました。


 包み紙を開き、机の端にリボンを置いた。

 母が見たら、何と言うだろう。似合うと言ってくれるかもしれないし、汚れたら色が落ちないかを先に心配するかもしれない。


 うまく描けなくてもいいから、小さく絵を添えた。


 夕飯は、ナギと薄焼きを作りました。今日のは真ん中のやわらかいところがおいしかったけれど、ナギは端の焼けたところばかり食べます。二枚目の薄焼きも、形がおかしくなりました。


 書いてから、少し考えた。


 三枚目も、丸くはありませんでした。


 窓の暗いガラスに、自分の笑う顔が薄く映った。


 来週、局の調査でコトリ島へ行く予定だと記す。日取りは風と船の準備にもよるから、また局から連絡する、と続けた。自分の手紙が何日に母の手へ渡るかも、ここでは決められない。


 便箋を折り、封筒を取る。


 住所を書き始めると、手が一瞬止まった。

 いつもの空域。その次に、隣の島の名と取次先を書く。そこを経由して、コトリ島のスイへ。

 母の家の屋根も、門の横の石も覚えている。けれど、最初に書く島の名は、家のある島ではなかった。


 リコは取次先まで書き終え、母の名を添えた。最後の一画まで書いても、すぐに筆を離せなかった。乾くまで置いておく。書き上げたはずの便箋へ目が戻った。


 封をする前に、便箋をもう一度開いた。


 帰ったら、一緒に薄焼きを食べたいです。今度は、焼くところから手伝います。


 最後に一行加えて、折り直した。

 母の食卓が目に浮かんだ。自分の分の器を、どこへ置くだろう。


 机の端には、まだ青いリボンがあった。

 リコはそれを手に取り、鏡の前で髪に結んだ。明日は、これで買物に出ようと思った。


 通常の窓口へ出す手紙を鞄にしまい、明かりを消す。

 今夜はもう、引き出しを開けなかった。


挿絵(By みてみん)


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