7. 紙だけが通る
五日目の朝、ナギは整備室の机に、薄い封筒を一枚置いた。
「今日は、保管室の古い装置に、これを通してみる」
リコは椅子を引き寄せた。
二日前に来た手紙とは違う。表には大きく「局内点検用」とあり、宛名を書くところに斜線が引かれていた。
「行き先は、そこの箱まで」
ナギが足元を指した。封筒を寝かせて収められる、平たい金属箱だった。蓋には、中を覗くための小さな窓がある。今は壁にも何にもつながっておらず、ナギが持ち運べるよう、机の脇へ置いてあった。
「これを保管室へ持っていって、装置につなぐ。投函口から壁の中を通った封筒を、この箱で受け止めるんだ」
「外の町へ送るんじゃないのね」
「うん。今日は、入れた一枚が、壁の中を通って同じ部屋に戻ってくるかを確かめる」
リコは箱を見てから、封筒へ目を戻した。二日前、ミチの手紙は保管室の古い受け皿に載っていた。どこを通ってきたかは、まだ分からない。まずは自分たちの目の前で、紙を送り込んで取り出すところまで試すのだ。そのためにナギは、朝から小窓の内側まで拭いていた。
「この箱の小窓から、封筒が見える?」
「通れば。たぶん、すぐだよ」
リコはしゃがみ、箱の小窓を覗いた。今は空の底が見えた。
マレが取扱札と、糸で綴じた保守記録を運んできた。局に残っていた物を、昨日からナギと照合していたという。机に置くと、取扱札の隅に付いた紐が、古い折れ癖のまま丸まった。
「保管室は、朝の出し入れが終わっています。午前の点検が済むまで、私が鍵を預かります」
マレは丸眼鏡を押し上げた。
「今日は、この取扱札にある局内試験だけ。動かない箇所を、その場で直し始めないこと」
「はい。開けてよい蓋も、印のあるところだけです」
ナギの指が、札の図をなぞった。
壁の装置と、取り付ける点検箱が別々に描かれていた。紙を入れる位置から延びた線は、途中で二つに分かれている。ナギの指は、そのうち箱へ戻る方の線をたどった。
*
ナギが金属箱を抱え、リコが点検用封筒と記録用紙を持って、マレの後を追った。整備室を出て局内を歩き、鍵を開けてもらって保管室へ入る。ここは配達を待つ郵便や記録をしまう、職員用の部屋だった。
棚に囲まれた壁の一角に、古い装置が残っている。「旧仕分け口」と札の付いた細長い隙間と、そのすぐ下へ突き出た金属の受け皿。二日前、ミチの封筒が載っていたのは、この受け皿だった。今は空で、上には「使用中止」の札が掛かったままだった。
マレが、その隣の細い点検蓋を開けた。
蓋の内側にも、横長の細い隙間があった。こちらは封筒を差し入れる投函口だと、ナギが教えた。真鍮の縁の奥に、紙の厚みに合わせた薄い溝が続いている。人が通る戸口ではなく、平らな封筒を一枚ずつ扱うための装置なのだった。
「送る時は、この投函口から入れる」
ナギが言った。
「隣の旧仕分け口は、届いた紙が出てくる排出口。その下の受け皿は、出てきた封筒を受け止めるだけなんだ」
「じゃあ、ミチへの返事をあの皿に置いても……」
「送り込めない。入れる場所と、出てくる場所は別になってる」
リコは、蓋の内側の投函口と、隣の受け皿を見比べた。同じ壁にあるからといって、同じ使い方をするわけではない。投函口の奥の溝を覗くと、すぐに暗くなって先が見えなくなった。
ナギは取扱札と同じ印を探し、つまみの位置を確認した。マレも図を見てからうなずく。局内試験の位置へ合わせると、小さな板が下りて、外へ続く側を塞いだ。
ナギは金属箱を持ち上げ、壁の装置にある試験用の接続口へ取り付けた。箱の側面の差込み部分を合わせ、留め金で固定する。箱は保管室側へ張り出し、小窓のある蓋も、部屋から覗ける向きになった。
「投函口から入った封筒は、壁の中の短い試験経路を通って、この箱へ出てくる。今日は隣の受け皿には出ないよ」
ナギは取扱札の図と、目の前の装置を交互に指した。外へ続く道は、さっき下ろした板で塞いである。紙が通るのは、この壁の装置と、つないだ箱の間だけだった。
リコは投函口から箱まで目を動かした。同じ部屋に立ったまま、入口も行き先も見える。壁の中に隠れているのは、その間をつなぐ部分だけだ。マレとナギが、箱の留め金が閉まったことを確かめた。
「箱が外れたら?」
「投函口の内側が開かない。そっちも、紙を入れる前に確かめる」
ナギは決められた順に確認していった。
リコも、取扱札の項目と彼の動きを見比べる。自分の役目は、試験に使う紙を数え、通す前と後の状態を記録することだった。
装置を動かす準備を終えると、三人はいったん整備室へ戻った。点検箱は保管室の壁に取り付けたまま、まだ何も通していない。次は、整備室にある秤と見本板で、使う封筒の重さと厚さを確かめる番だった。
リコが机に置いた点検用封筒を、ナギが窓の光へかざした。
紙の端だけ、細かな繊維が重なって見えた。
普通の封筒の糊代とは違う。
「この縁が目印になる。投函口の仕組みが、専用の封筒だと見分けるんだ」
「切手じゃなくて?」
「この点検用は、封筒に縁が付いてる。何でも薄くすれば通るわけじゃない」
リコは封筒の中央を持った。窓へかざす角度を変えると、薄く重なる繊維が見え隠れする。
マレが、アカリの町からの封筒を、別の盆に載せてきた。中の依頼書と絵は保管袋に残し、外側だけを見比べる。
開封した端とは反対の縁に、似た繊維の重なりがあった。古い紙の色に紛れて、宛名を追っている時には気づかなかったものだ。
「同じ作り方なんでしょうか」
「似ている部分はある。まだ、同じ物だとは決められない」
ナギは触らずに見た。リコが照合した場所を書き留めると、マレは原本を保管場所へ戻した。試験に使う机に残ったのは、斜線のある点検用の一枚だけになった。
取扱札には、厚さは二ミリまで、重さは二十グラムまで、とあった。封筒も中身も合わせた上限だった。
秤の皿へ封筒と試験紙を載せる。
試験紙は三枚。リコが一枚ずつ表裏を確かめ、番号を読んだ。
「一、二、三。ほかには入っていません」
針は上限よりずっと手前で止まった。数字を記し、三枚を封筒へ収める。ナギが渡した厚さの見本板と並べると、封筒はそれより薄かった。
秤の針が、小さく揺れて戻った。三枚を入れた封筒を手に載せても、重さはほとんど感じない。このくらいの文しか入らない便で、昔の人は何を知らせ合ったのだろう。向こうの機械は動くか。部品はまだ使えるか。食事に戻ってこいという呼び出しも、混ざっていたかもしれない。
「もっと書きたかったら、小さい字にするのかな」
「読める人がいればね」
「ナギの字なら、まだ入る」
ナギは自分の控えを見た。
「君の数字の方が、遠くから読める」
「それは大きすぎるってこと?」
「僕は助かるよ」
試験の番号だけは、リコの字で一枚の真ん中を使っていた。
「どうして、この繊維で分かるの?」
ナギは少し考えてから、取扱札を開いた。
「認識する部分の手入れは書いてある。でも、中の仕組みの詳しい図は、ここにはない」
「ナギでも?」
「僕も、全部知ってる機械の方が少ないよ」
ナギは札の裏も見た。裏には何もなく、表へ戻してからも少し眺めていた。リコは封筒をそっと机へ下ろした。
*
三枚の試験紙を入れた点検用封筒と、記録用紙を持って保管室へ戻った。マレが、壁につないだ金属箱の蓋を開けて見せた。
空だった。リコはそう記録し、蓋が閉じるのを見届けた。
ナギが投函口の手前の溝へ、封筒の縁を合わせる。
指で奥へ押し込むことはせず、取扱札に示された位置で手を離した。傍らの小さなハンドルを回すと、かすかな音がして、投函口の内側が開いた。封筒が溝の奥へ滑り込み、壁の中へ見えなくなった。
ナギは投函口を見守り、リコは金属箱の小窓へ身をかがめた。
リコは息を止めた。
壁の中で何かが擦れ、取り付けた箱の小窓を、白いものが横切った。
「止めます」
ナギがハンドルを戻す。マレが合図を待って点検箱の蓋を開けると、底に封筒があった。先ほど投函口に置いた一枚が、壁の中を通ってここまで来たのだ。
リコは受け取った。
縁を見て、表を見た。自分が先ほど読んだ「局内点検用」の文字が、そのままある。
保管室の作業机へ移り、封筒を開いて、試験紙を順に並べる。
「一、二、三」
最後の一枚を置いてから、封筒の内側も確かめた。
欠けも、折れ込んだ紙もなかった。
隣の部屋から、いつもの仕分け台の音がする。港で誰かが荷車を押している。ほんの数歩先へ紙を動かしただけなのに、リコには、壁の厚さがさっきと違って感じられた。
「もう一度、通しても?」
思わず言った。
ナギの口元が、少し上がった。
「僕もそう思った」
二人の顔を見て、マレが笑った。
「今日は一回分の確認です。もう一回やるなら、何を調べるか決めてからね」
リコは三枚の紙をそろえた。
「窓を見てたら、入るところを見損ねました」
「僕は投函口を見てた。出るところ、どうだった?」
「白い線が走ったみたい」
マレがまだ開けている箱を、二人で覗いた。底は空で、薄い擦れ跡があった。さっきの音をもう一度聞きたくて、リコは箱の横へ耳を向けた。当然、何も鳴らなかった。
「点検箱へ戻す方じゃなくて、外へ送る方に切り替えたら、ミチへの返事を送れますか」
マレはすぐには答えず、保守記録を開いた。
ナギが、見つけておいた頁へ指を添える。
古い点検票の控えに、送った日と、受け取ったという報告が来た日が別々に記されていた。数日の間隔もあれば、同じ季節の欄では収まっていないものもある。
「経路停止中」と、後から加えられた文字があった。
「宛先の印が付いていても、途中が止まれば届かない。これは、ここに残る記録で分かることです」
マレは頁を押さえた。
「でも、あの手紙がどこを通ってきたか、今も同じ道が使えるかは、まだ分かりません」
経路停止中、の文字は、細い枠を越えて隣の欄にはみ出していた。その横の受領日は空いている。返事を書けば、ミチはあの絵を局が見たと知るはずなのに、こちらも次の白い欄を一つ作るだけになるかもしれなかった。
「送ったあと、受け取ったかどうかも、確かめられないんですね」
「今はね」
リコは試験の記録へ「局内点検箱まで搬送、三枚回収」と記した。試験紙を三枚重ね、角をそろえる。
「図から、行ったことのある人を探す方は、続けていいですか」
「ええ。会って道を確かめられる人を探しましょう。連絡を頼む時には、その人のいつもの便に乗せられるかも聞いて」
リコはうなずいた。図に描かれた船着き場へ、どこから舟が来るのか。先日の照合で書いた問いを、次に誰かへ見せる時の言い方で繰り返した。
*
使った封筒と三枚の紙は、点検記録と一緒に綴じ袋へ収めた。
ナギは試験の接続を取扱札の順に戻した。
投函口の内側を閉じ、金属箱を取り外して、試験用の接続口も閉じる。マレが点検蓋に鍵を掛けた。封筒のあった受け皿の上には、使用中止の札が残った。
リコは記録の最後に、外の経路と到着時刻は未確認、と書いた。
受け皿の端を見た。二日前、あそこで紙が揺れていた。あの封筒を一枚の古い紙と思って眺めていた時には、縁に重なる繊維も、壁の中を滑る音も知らなかった。リコは両手の間にあった薄さを、親指と人差し指でそっと作った。
取り外した点検箱を整備室へ運び終えると、ナギは工具をしまい始めた。リコはその手元を見ながら尋ねた。
「あの先も、いつか調べたい?」
「調べたい」
早い返事だった。
「止まってるのが一か所なら、そこを直せるかもしれない。違う場所も止まってたら……その時は、またそこを見る」
ナギは机の上に残った見本板を、箱へ戻した。
「次は出るところも見たいな」
ナギは金属箱の小窓を拭いた。使う前にも拭いたのに、とリコは思ったが、彼の手はいつもの工具をしまう時よりゆっくりだった。
「見る役、替わろうか」
「うん。次が決まったら」
箱の蓋が閉まった。リコは記録を抱えて廊下へ出た。隣でナギが、白い線か、と小さくつぶやいた。




